ちょっと、思ったこと
日記感覚。メモ程度。

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■ 12/20 「これでいいのだ」      

■ 05/20 移転に際して近況報告      

■ 03/30 新しい時代?          

■ 09/04 DVDを買う           

■ 10/07 問題              

■ 04/13 ご報告〜            

■ 12/21 口癖              

■ 09/30 合理性という価値観       

■ 08/04 最近読んでる本(笑)      

■ 07/06 御無沙汰してました       

■ 05/18 『闇の子供たち』        

■ 03/15 挑戦的反応           

■ 03/18 『未来社会への変革』に付随して 

■ 02/12 「世界」と日常、そして他者   

■ 01/21 『未来社会への変革』つづきの前に

 過去ログ   

 



「これでいいのだ」
2012/12/20

 

いやあ、すっかりご無沙汰してしまって☆
なんか内面の変化がだらだらだら〜〜と続いていて、いまいち書くタイミングがつかめなかったのよ。それもようやく目処がついて(?)、年末だし書いてみようかと思った次第。


変化だらだらだら〜だから、「まるで昔からこんな人だったような気がする♪」わけだが、お酒飲まなくなったしねぇ、玄米菜食になったし、親と畑始めたし、変わったよねぇ(笑)。
簡単にいえば、春過ぎころからスピ系にはまっていたのよw はまったとはいえ、その素地は当然これまでに培われてきてたんで、そんなに唐突なわけでもないと思うんだが(←チョプラしかり、A Course In Miracles(ACIM)しかり)。
いろいろ本を読んでいく中で、至高体験に見舞われたり、興味本位で催眠療法も受けたりして、驚きと発見の毎日〜。なかなか楽しくやっていたのよ。
この催眠療法が興味深くてねぇ(泣笑)。まぁ個人の内的体験だから、ここで詳細を述べても「んー」てなると思って書かないけど、潜在意識が大泣きしているのを顕在意識が「ほえぇぇ」とびっくりして見ている状態つーのは、面白いーっと思った。ほんとにこうなるんだ。
ところでそのセッション中、私のインナーチャイルドに会いに行く、というのがあったんだが、なぜか会えなかったのだよ。あとで先生に「小さい頃の自分を否定していないですか?」と言われ〜。
家に帰ってきてから「……そうかも」と思いつつ、「ていうかインナーチャイルドってなによ」とそこから調べはじめ、図書館にも行って本を2冊借りてくる。たまたまそこにあった『インナーチャイルドの癒し----子どもを愛せない親たち』(黒川昭登/上田三枝子、朱鷺書房、1997)と、『インナーチャイルド----本当のあなたを取り戻す方法』(ジョン・ブラッドショー、NHK出版、1993)。
インナーチャイルドとは、子どもの頃に傷ついた心(でいいのか?)。前書で強調されていたのは、子どももしくは母親等の「個人」ではなくその「関係」、それも原因母子関係と結果母子関係というものに注目するってこと。子どもを身体的・精神的に傷つける母親と、その母親(祖母)との関係が「原因」母子関係ってことね。
母子関係は『愛着障害----子ども時代を引きずる人々』(岡田尊司、光文社新書、2011)を読んでいたので通りが早かったが、さらに世代をさかのぼって考えてみるって思いつかなかったな〜。「虐待は連鎖する」って、昔読んだアダルトチルドレン本に書いてあったのになー(たぶん『アダルト・チルドレンと家族----心のなかの子どもを癒す』、斉藤学、学陽書房、1996)。
ところであたしは戸惑った。せっかくスピ系で赤塚不二夫の「これでいいのだ」をものにできたと思ったのに、子どもの頃の傷を精査するのは「あいつが悪かった」的犯人探しをするようで気が進まない。でも古い感情は解放すべきだと感じるしー。
どぎまぎしつつ、それでも興味をひかれて2冊目の本をざっと読み進めた。これはなかなかいい本だ。セルフヒーリングができる。そして驚いたことに、最後は「これでいいのだ」に繋がっていた!「破壊した私の家庭、アルコール中毒の父、依存心の強い母、私の貧しさ、すべてがそれでよかったのです。すべてのことが、私が今やっていることをなしとげるために必要なことだったのです」(p.382)。いやー、よかったよかった(笑)。
「わたしの人生で最もいやな出来事とは、結果的には最も良いことだったのです」(p.395)。『アルジャーノンに花束を』について書いていたとき(だから8年前)、「そんな風に思えるようになったらいいけど、きっとほとんど起こり得ない心情だな」と思っていた。でも今はほんとにそう思う。その出来事に限らず、他の、大小数限りない嫌な出来事も(もちろんいい出来事も)、今までのすべてがあたしをこの「今」に連れてきてくれたのだ。犯人探しはもうしない。ていうか、それらはむしろ感謝すべき私のこれまでの一部。
ことここに至って、ようやく私は「善悪の彼岸」にたどり着いたのだろうか。善も悪も役割に過ぎない。「中庸」にたどり着くための? 中庸…再構築…丸山真男(というか福沢諭吉)ベイトソン…マヤのカバウィル…、デカルト的二元論の棄却なんて、ずっとやってきたことじゃないか。今また自身の内から同じものが出てきて、理解度が増した感じ。「ユングを引用しましょう。「そのチャイルドは暗闇に光をもたらし、そして前方を照らす」」(p.388)。あー、ゲド戦記ってどういう話なのかな。


自分のこれまでを振り返るに、そこに見える精妙さは驚くべきものだと改めて思う。感謝の念しか湧いてこないね。誰に?世界に。私以外のすべてのものに。
こんな気持ちになるなんて、数日前には思いもしなかったよーー(苦笑)。だから今一番調子づいているんで、あとあと詰める必要がある部分は引き続きちくちくやっていくつもり。皆様、どうぞよいクリスマス&新年を〜♪






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移転に際して近況報告
2012/05/20

 

すっかりご無沙汰してました。お元気でお過ごしでしょうか??
見たら、前の更新は3月だったんですねぇ。いやはや。
なんだかね、「なにかしなくちゃ!」という思いと、「こんなことしたってどうにもならんよ」という思いとあって、でも現実に「被災がれき受け入れます〜」と地元自治体が言えば、何かしら動かざるを得ない。そんな感じでメンタル的にふらふらしてたんですよ。ああ、青山の言っていたように(そして『カムイ』の正助みたいに)、結果を求めずに行動するというのは、どうしたら可能なのかと。
恥ずかしながらやはり山羊座ということなのか(笑)、石井ゆかりさんが次のように書くところは私自身「あるある」と思ってて、それが311以降、妙に強まっている気がするのですよ。バランスとれないくらい。

山羊座は、よくイメージされるような、
自己抑制力にすぐれた四角四面な実利主義者、
ではありません。
その体の中にあふれる生命力について、
ある種、非常に正直な星座だとおもいます。
正直
というのはどういうことかというと、
この眼前に具体的に広がっている世界に対して、
自分が自然に抱く衝動にまっすぐであるということです。
安心して生活したいのです。
誰よりもいい生活がしたいのです。
自分の力をこの人間たちの前で発揮してみたいのです。
みんなに認められたいのです。
受け入れられ、エライといわれ、
この世界を動かすルールを、自分が正しいと思えるような形に、
再編成してみたいのです。
自分の心の中だけとか、家の中でだけとかじゃなく、
正々堂々、外向きに自分を存在させ、認めさせたい。
(略)
自分がせっかく生まれてきたのだから、
どうにかしてこの人生を、社会の中にどーんと位置づけてみたい。

でもまた逆に「ほんとはなんでも、どうでもいい」感もあって、それも石井さんに指摘され〜〜。

できないから、やらない
となったときの山羊座のネガティブパワーは、相当怖いです。
徹底しているからです

図星ゆえにウケる(爆)。
だから「成果主義、完璧主義を抜け出して、どう「人間」としてあるか」と石井さんは言う。
あうーん。どうしよう(泣)。
かつ、サイト移行作業なんかしてるもんだから、昔の文章を見るわけだけど、それで「わるい空気」にあったダグラス・ラミスの言葉がまた、私を刺激するのだ(苦笑)。

ローザ・ルクセンブルクがいったように、革命では、最後をのぞいたあらゆる戦いに敗れる。待つことは永く、しかもそれほど遠い未来に心を拡げるのはむずかしい。だから経験することといえば、くる年もくる年も負ける。美しく負けるかもしれない。勇敢に負けるかもしれない。または理性的に負けるかも、道徳にのっとって負けるかも知れない。しかし負けることに変わりはない。(略)
もちろん、誰もが依然として最終的な勝利について話す。しかし、徐々にこの話は神話になってしまう。終局の勝利を意図した行動は、終局の勝利を信じたかのようにしてとられた行動へと変形してしまう。未来に何が起こるか、まったくわからないけれど、(議論ではそうなる)勝利が可能であるかのように行動しなければ動きもとれない。これは巧妙に洗練された議論である。そのどこが間違っているのかをいうのはむずかしい。ただ周囲に漂う空気が、活気がなく息詰まるような図書館の臭気がする。
(略)政治において重要なのは勝つことである。権力を奪い、自分のものにすることだ。政治では、敗北にはなんの価値もない。必然的に負ける敗者の側に立つことは、道徳的で勇敢であるかもしれないが、それは政治ではない。それは、魂を潔白な気分にさせるかもしれないが世界の構造を変えはしない。(『イデオロギーとしての英会話』、ダグラス・ラミス、晶文社、p.248)
(略)
ベトナムの人々は、道徳的議論で権力を押さえて勝ったのではなかった。彼らは、アメリカの戦争機械の支配者たちを平和主義者に改心させたりはしなかった。彼らは、政治と戦争に、強かったから勝ったのだ。そのことを理解するのが肝要であり、詭弁をもちいてそれをごまかすことを許すべきではない。(p.250)

そーだよねぇ……。政治の文脈での負けには意味がない。がれき受け入れや原発再稼働を止められなければ、それを意図した行動にはまったく「意味がない」。意味のない行動を、それでも続けていけるとすれば、目標をどこに置いたらいいのか。負け続けているせいで子供らが被曝し、土が汚れ、なおかつ原発をやめられないなかで、「意味のない行動(になるかもしれない行動)」を続けていける、目標。
……いやいや、これこそが先の「成果主義、完璧主義」の考え方なのか(笑)。
そうやって煮詰まっては「どうでもいい」と思い直してふて寝する自分。
ところで先日『【アセンション版】宇宙人の魂をもつ人々』(スコット・マンデルカー、徳間書店)つー本を読んだんだけど(爆)、なんかね、面白かったよ。いわゆる抽象度の高い視点が得られるわけなんだが(高過ぎ?)、こういうのも採用しないとバランスとれなくて、ふて寝ばかりしなくちゃならない。

ほんとうに世界を救えると思っていますか? あなたのまわりの悪や身勝手や無知をすっかりなくすことができると思いますか? 基本的な問いは単純そのものです。あなた自身の人生に何を期待しているのですか? (略)現実離れした期待を抱いていては、落胆ばかりすることになります。(略)
あなたには世界は救えませんし、私にも無理です。自分が救えるのは自分だけ。私たちにできるのは手助けすることだけなのです。(略)この3D人生の目的は、ユートピア社会の創造では断じてないのです。(略)人類はなるようになるでしょうが、混乱のさなかにも相当な人々はちゃんと成長しているのです。私たちにできるのは、節度あるやり方で彼らに有用なきっかけを用意することです。(p.374)

自分を救うために世界を救いたいんだけど、「人類はなるようになる」、か。あー、救われるわーーー(?)。
この文脈においては、たとえ4号機がどうかなっても「神の計画」なんだろうね。
とはいえ、だから「なにもしない」という風にはつながらない、はず。メタの視点も意識しつつ、目の前のことに取り組むってところかな。






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新しい時代?
2011/03/30

 

今月あたまかな、実は左親指のさきっちょ1ミリくらいを自ら包丁で切り落とすということをやらかした。あまりの衝撃に痛みを感じない(苦笑)。流しの前で膝をつき、親指を上に掲げて止血しながら思ったのは、「(ニュージーランドの)地震で足を切断された人に比べたら別に」ということだった。←?
東北関東大震災が起こってから1週間経った朝、私はこの傷のことを思い出した。あれほどの出来事をすっかり忘れていたことにまず驚いたし、思い出すときの感覚が「あの頃」であってしまうことも奇妙に思った。でもそのくらい、あの地震の前と後じゃ「世界」が変わってしまった。
直後から「今なにが起きている?」というニュースにあっぷあっぷになり、消化しきれない「今」がどんどん積み重なっていく中で、そのうちのいくつかはえらいスピードで古いものとなり、また新しい「今」が容赦なく供給される、という日々が続いた。それもさすがに落ち着いてきた感のある今日この頃、ふいに読みかけだった本をぱらぱらとめくっていたら、以下の文章が目に飛び込んできた。

いま、環境危機の到来とともに、もうひとつの新しい時代が始まる。それはポストモダンの終わり。一九八九年から約二〇年続いたポスト冷戦の時代の終わりである。(略)なぜ、環境危機が、ポストモダンを終わらせるのか。ポストモダンは、大きな物語の終わりだと言われる。冷戦が終結し、人びとを縛りつけていたイデオロギーが効力を失った。大きな物語を失った人びとは、めいめいが自分の価値観に従って、自由に生きることを強いられ、多元的な相対主義の海のなかに放り出された。自由と豊かさが、同時に制約と苦しみでもあるような、無重力のような空間がポストモダンである。環境危機は、大きな物語を復活させる。イデオロギーを復活させるわけではない。人びとを「人類」という連帯の輪に結びつける、大きな価値観を生きざるをえなくなるのだ。(橋爪大三郎、『「炭素会計」入門』、洋泉社、2008、p.60)

ここで言っている「環境危機」とは地球温暖化のことなんだが、いま想起されるのは当然放射性物質汚染だろう。自由と豊かさ……。なんだか懐かしい感じだ。「めいめいが自分の価値観に従って、自由に生きることを強いられ」??うーんうーん、そういえばそうだったねぇぇ。ポストモダンが終わったかは知らんが、現在の皮膚感覚としては率直に「それはもう違う」と思う。そして、確かに今「大きな価値観」の中にいるような気はする。
実はあたしが手にとった本は竹田青嗣の『人間の未来----ヘーゲル哲学と現代資本主義』(ちくま新書、2009)で、上のは竹田氏が引用しているもの (p.293)。そのあとで、竹田氏は次のように言う。

われわれは新しい「物語」を設定する必要に迫られているが、それは「理想理念」としての「物語」ではなく、現代社会と資本主義の「正当性」の理論である。 つまりそれは、世界はかくあるべきという特定の理想の「物語」ではなく、世界が少なくともこのようなものであるなら、それについては誰もが納得するほかないといった、合意の普遍性の理論にほかならない。(p.296)

今ほど、この文章がぴぴんとくる時はないんじゃないかと思う。原発があんなで、電力足りません、だから節電しなくちゃってことは、誰もが納得するほかない。天皇まで節電してんのにパチンコ屋どーなのよということは、つまり「正当性」が問われてるってことだ。東西の電源周波数を統合しない「正当性」はどこに?とか、そーゆー話になってきている感じは確かにする。←文字通りサンデル先生の「Justice」の世界。
さらに言えば、(特に原発に関して)これまで「正当」とされてきたものに対して「そうでない」と言えるのは、まさに今しかないかもしれない。というのも、 竹田氏も指摘しているように、「この「危機」こそ、われわれの選択肢を明瞭にし、合意と決断を強固なものにする可能性でないだろうか」(p.298)。原発をとりまく政・産・官・学の巨大な利権複合体を打ち破ることも、今ならできるかもしれない。

たくさんの国々から支援を受けているこの情況で、突如芽生えた「人びとを「人類」という連帯の輪に結びつける、大きな価値観」。実は私なんかは正直戸惑っていて(笑)、簡単にいえば、やけにでかいこと言うようになっちゃったとか、「みんな」て言葉が変に気持ちいいとかなんとか、自分でもちと恥ずかしい。でも、これが一過性で終わらないとしたら、橋爪氏のいうようにこの価値観を「生きざるをえない」という厳しさも、きっとこれから明らかになってくるんだろう。被災地、原発とともに、こういったことも気にしていきたい。






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DVDを買う
2010/09/04

 

昼ごろ外出先から帰ると、頼んでいたDVDが届いていた。家に入り中身を確認。窓をあけ、扇風機をまわし、冷えた発泡酒を手にさっそく鑑賞〜〜〜。くあぁぁ、なつかしーー。そうそう、こんなオープニングだよ。
買ったのは『真夏の夜のジャズ』。1958年のアメリカ映画(←第5回ニューポート・ジャズ・フェスティバル長編記録映画)。廃盤になっててね。それでもお安く手に入れたほうらしい。こんなに値が上がる前に買っときゃよかった。

これまであたしはDVDを買うってのがどうもピンとこなくてねぇ。「見たくなったら借りればいいじゃん。買ったってそんなに見るわけじゃないし」と思ってたのよ。それが!!ほんとーにあたしはバカだった。東京ならいざしらず、こっちでそんなのがほいほい借りられるわけねぇだろーーーと思い知らされたのだった。
実は旦那さんは「あたしと」DVDを見るのが好きで、ここんとこやたらと自分のコレクションを見せたがり、辟易していた次第。そのコレクションには、残念ながら私の触手をそそるものがほとんどなく、わたしと旦那さんの趣味の違いを分からせるためにも、「今度はあたしが見たいものを一緒に見よう!」と言ってレンタルビデオ屋に出掛けたのだった。そしたらさー、ないわけよーー、古すぎて。もしくはマイナーすぎて。考えてみりゃ当然のことを、これまで考えるシーンがなかったのよぉ(泣)。
そういうわけで、ちくちくとDVDを買うことに。最初に買ったのはヤン・シュヴァンクマイエルの『ジャバウォッキー』。おおお、新宿で見て以来だよ〜〜と一人興奮気味に再生するも、横にいる旦那さんのことを考えると、この作品はあきらかに彼向きじゃない。息を詰めて、どうも意味を探ってるみたい。「これってなんなの?」って言われたらやーだなーーと、こちらもだんだん息苦しくなってくる。見終えてから色々もにょもにょ言われるが、結論としては「こわい」。そうか〜(苦笑)。じゃあアルジェントは駄目か。ひょっとしてタルコフスキーの『ストーカー』も怖いって言われるかなぁ。「シュールすぎる」とも言ってたから、『ひなぎく』とか『夢二』とかもダメかなぁ。『オルランド』はギリギリか??『未来世紀ブラジル』はダメだな。
『ベルリン/天使の詩』は「いい」らしい。あたりまえじゃ(笑)。ドキュメンタリーは好きじゃないとかで、今回の『真夏の夜のジャズ』は「一人で見ていいよ」とのお達しが!いいぞ〜〜〜(爆)。そうだ、どうしても二人で見なくてはならないなんてことはないのだよ♪ということで、次は『ひなぎく』を買うつもり。






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問題
2009/10/07

 

「人生はゲームに例えられる。その構成要素は自由と障害と目的であり、個々人がそれぞれに目的をもつがゆえに、自らと相反する目的を持つ人間との間に問題が生ずる」、とかなんとかという文章を、ちょっと前に見た。いろいろ突っ込みどころはあるが、これを読んで「ああ」と思ったのは、問題とは起こるものだということ。つまり、自分が問題ばかり抱えているようなときでさえ、それは自分が悪いわけじゃないってこと。……まっとうな目的のためにすべきことをしているだけであればね(苦笑)。
とにかく問題は起こる。よくまぁ次々と、と思うくらい向こうからやってくる。だからさ、問題を避けようとしたり、問題から逃げたりするんじゃなくて、人生はゲームなんだとしたら、「お。次はこうきたか。なるほどねー(?)」くらいの視点で問題を捉えたら面白いかもしれない。……つーか、 でないとやってられんよ。←結婚してからこっち、関わる人間の数が急に増えた人。
ちなみに、現在明らかに私のせいで生じている問題もある。「引っ越しする」という目的のためにすべきことをしていないからさ〜〜〜。
近況報告もかねて書くと、先週末だって気づけば『Mas que Nada』をエンドレスで聴きながら粗供養でいただいた日本酒を飲み飲み、貴金属刑事のCMギャラリーを見て笑い転げている始末。ようやくロフトにあがったと思えばそのうち吉田秋生の『吉祥天女』 を読み出してしまって、ははは、おそろしく作業効率が悪いのだよ。誰も止めてくれんしね(苦笑)。


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ご報告〜
2009/04/13

 

もぉぉ、桜散ってんじゃん!
恐ろしいことに、「あけましておめでとうございます」だ。今年に入ってはじめて書くよ。いや、何度か書いてはいたんだが、あまりに状況変化が激しくて、その都度リリースには至らなかったんだ。

なにかというとね、年末にプロポーズをされたんだよ(苦笑)。
で、1ヶ月後に承諾のお返事をして、それからはあれよあれよとまぁ。うん。なんだかやること山積状態。
結婚する気なんてさらさらなかったから、年末以降はそれまで無縁だった事柄にもみくちゃにされっぱなし。しかも周りはすでに「先輩」だったりして、いやぁ、これまでを考えれば、意外なネタで意外な方々にいろいろご教授賜ったよ(笑)。
ああ、そう、それでね、相手が新潟で中学校の先生をしている関係で、あたしが仕事を辞めて、地元に帰るのだよ。すごいでしょ。すごくない?我ながら「よく決めた!」って思うよー。
そこらへんの攻防(?)については詳しく書かないけど、結婚をするにあたっては実は一大イベントがあったんだ。それもちょっとご報告。
それこそ年末にここで「終わるって素晴らしい〜」とかほざいていたけど(笑)、結婚相手からのすすめもあって、虐待のことを母親に話したんだ。結婚して新しい姓になる前に、「今のあたし」を終わらせるには、このことを話さなければ終われないんじゃないかと思ったんだよ。
話したら母親はどうなるんだろうと思っていたけど、かなり冷静に聞いてくれているように見えた。あたしが泣き出すと、ティッシュボックスに手を伸ばして、ばばばっと2、3枚取ってこちらに差し出してくれたし(苦笑)。話が済んで母親が最初に言ったことは、「申し訳ないけど、この話はお父さんにはできないわ」。それはあたしも望んでいたことだったけど、でもそうすると母親は一人抱え込むことになる。無理矢理そんな風にしてしまって申し訳なく思うって、その結婚相手に漏らしたら、「いいんだ。親とはそういうものだから」って。その人は学校の先生をしているからそういうことが言えるのかもしれないけど、そういう人があたしに「一緒になって」って言ってくれた縁の不思議さを思うよ。
……ちなみにその結婚相手は高校時代の部活の先輩。だから今年は出会ってから20年目になるんだ。事ここにいたって思うのは、そんなに長い間なにをしてきたのかということ(苦笑)。もちろんそんなこと言ったら「なに言ってんの」って言われそうだけど、そう思うくらいこの3ヶ月あまりであたしのアタマは作り替えられた感がある。意識的にも無意識的にも、かなりの早さでスクラップ&ビルドを繰り返してきたよ。ときどき完徹で仕事に行ったりね(笑)。そういう意味では年末以降、ほんっとしんどかった。最近だよ、やっと落ち着いてきたのは。そんなのに巻き込んでしまった一部の皆様には、すごく感謝してますー。どうもありがとう♪

まさに今、「これまで」が終わりつつあり、「これから」が始まりつつあると思う。そういう中にあって、なにが変わって、なにが変わらないのかなとも思う。 spiral inspirationも、どうなるんかなぁ。この場所は変わらないにせよ、あたしの言うことや扱うネタはえらい変わるよね、きっと。いや、わからん(笑)。あわよくば、今後も引き続きお付き合いいただければと思いますー。

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口癖
2008/12/21

 

……事情通の方なら、にやにやしながら「そりゃお前、『細菌性髄膜炎』じゃないの?」と言われるかもしれないが、今日はそういう話じゃなくってね(苦笑)。
一時、同じ言葉をやたら使いたくなる状況が続くことがある。だから厳密には口癖とは違うと思ってんだが、口癖なんかなぁ。ちなみに最近の口癖は「終わるってスバラシイ」(笑)。その前は「得てしてそういうものだよ」。その前は「だから積み重ねなんですよ、積み重ね」。その前は、なんだっけ。「物事には順序ってもんがあるんだよ」、だ。
ここの更新をずっとできないでいたのは、5月に企画した広報の仕事が追い込みに入ったから。仕事ったって、本当の仕事じゃなくて、まぁ言わば放課後活動みたいなもんね〜。しかもアミダで決まって「長」になんかなったもんだから、広報そのものに加えてメンバーとの連絡やら会議の資料作成やら、とにかく自分の文章に曝され続けて自家中毒気味だったんだよ(苦笑)。ああ、それから12年ぶりに「人前でしゃべれ」って言われて、その原稿も10月くらいからちくちくやってたし(ぶつぶつ)。
そこらへんが、12月に入って次々片付いたわけ。片付いたっていうか、「片付けた」。片付けたにしても一人で片付けたんじゃなくて、たくさんの人にそれぞれのタイミングで手を貸してもらって「終わりました」って感じ。これはね、すごいことだよ(笑)。でもさ、そのすごさが分かるのは、「発表者」とか「長」とかをやらせてもらってたあたしだけなんだろうね。終わった段階でお世話になった人たちに改めて御礼を言ったりするとびっくりされるから、みんな「大したことしてない」って思ってると思うんだ。だけど何もないところからなにかを作るという過程を経てきた側からすれば、それぞれのヘルプは断片でもなければ思いつきでもなく、その時どうしても必要としたものなんだよねー。その連続。それが、求めれば与えられるということのすごさ!いや、ボキャなくて他になんて言ったらいいか分かんないんだけど(苦笑)、すごいって思うよ。
だからさ、さらに思ったわけだよ。極端に言えば、あたしは何もできなくてもいいんだって(懐かしの『神コンプレックス』〜(爆))。できないことは、できる人に頼めばいいんだって。そして、できることはやったらいいんだよ。「自分にできることを精一杯やればいいんだ」って、よく聞くけど、あれは気休めじゃないってことが身にしみて分かった、今回。自分で大したことしてないと思ってることでも、ある成果の欠くべからざる要素となりうるんだからさ。
まぁ、こんな大袈裟な話じゃなくても、終わるということは素晴らしいことだよ。年賀状書き終わった♪、でも(←また……)。


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合理性という価値観
2008/09/30


冨田晃氏のインタビュー記事について書くと言っていたんだった(苦笑)。
結構内容盛り沢山だから手を出すのが億劫になって〜というのが正直なところ。「まとめらんねぇよ(泣)」って。そういうわけでまとめるのは止しました♪ ちなみに雑誌および冨田氏についてはこちら

冨田氏は、「近代社会は(略)合理性だけを唯一の価値観にしてしまった」(p.77)と言う。

カーニヴァルは、合理性の価値観からみれば、ほとんど意味のないことでしょう。そして交霊も合理性を満たすような目的なんてないんです。カーニヴァルは、 カーニヴァルそれ自体が目的であって、それ以外の目的なんてないといってもいい。じゃぁ、近代社会が錦の御旗としている合理性ってなんなの?と問えば、じつは、そこにもないんですよ、本当は。合理性とは目的に対して最も効率よく進もうとすることをいうのですが、誰にでも共有できる目的なんて、ないのですから。ないとわかっているのに、近代社会の人間たちは、それを後生大事に守り続けているわけです。
(略)
祖先の霊と交信したいとかカーニヴァルで踊り狂いたい、だって立派な目的ですよ。なのに、近代社会はそれを目的から排除してしまった。目的の種類を非常に減らしてしまったんです。(p.77)

端的に言って、いわゆる「閉塞感」つーのはこういうところからきてんじゃないかと思ったわけだ。「意味ない」ということで評価されないならまだしも、合理性の枠から外れたってこと自体に対して攻撃されかねんという感じ。いやまぁ、そんなことは今に始まったことじゃないにせよ、最近は殊に苛烈な印象が〜。上で冨田氏が言っているように、合理性の価値観だってほんとは根っこなんてないんだってことを時には思い出さないと、うっかり真に受けちゃってこっちも具合悪くなっちゃうよ(苦笑)。
突然だけど、ここで丸山を持ってこよう。『ホロン革命』で引用した部分。

既に見たように、日本の超国家主義においては、国家が究極的価値の体現者であり自己目的であった。このような国家においては、国家が本質的に権力装置でありその共同性がフィクションであるということが意識され難く、個人は内面的にも国家に吸収されて自立を得ることができない。
これに対して、諸個人が自分たちの共通価値----世界観、宗教的価値、学問的・芸術的価値、その他の共通関心----に基づいて自主的な結合を進めると、価値をめぐる社会関係(非国家的世界)の多様性が意識され、国家が価値の独占体であるという事態に対する精神的抵抗が可能になる。(それは、同時にこうした自主的な結合を形成するのが各個人の自発性=「作為」に他ならないということを明確にすることによって、社会・国家は諸個人が作るものであり、しかも価値の究極の担い手が各個人である、という意識を(略)発達させるものでもある。)(笹倉秀夫、『丸山真男論ノート』、みすず書房、1988、 p.307)

冨田氏は、この前半部分について話していると見ていい。

日本に帰ってくるとちょっと辛いなと思うことはありますよ。向こうの連中は、あんなに生きているのに、どうして自分たちはそれができないのかなと。日本は途上国に比べれば、経済力は言うまでもなく、教育のレベルだってずっと高いはずなのに。まず、感じるのは、一人ひとりが自分の判断で行動しているとは到底思えないということです。何か大きなシステムの中で、生かされている感じ。自分で判断しているんじゃなくて、流れに乗って、その中であっちだこっちだと言っている感じがすごくする。トレンドの中で生きているだけ。これは、相当に寂しいことですよ。近代国家のはずなのに、そこに暮らす人々の一人ひとりの主体性というものがまるで感じられない。日本は、「市民」というものが成熟していない。大学進学者が多数を占めるこの時代になってまでも、各個人が知性の主体となって、判断し、行動しようとしていない。ギリシアに発する市民社会が、ヨーロッパ文明となり、それが日本を近代化以前に長い時間をかけて成熟させてきたそれぞれの土地の風土に根ざすものも、その多くを失ってしまった。
一方、世界を見渡せば、近代性とは別のあり方で、人のつながりや価値観がつくられている社会がある。トリニダードのカーニヴァルにしてもホンジュラスのガリフナにしても。ぼくの立場は文化多元主義ですが、近代化の弊害が最近ますます目に付くようになってきて、そうして別の価値観や別の文化というものにリスペクトする気持ちがある。(p.71)

そういう別な構造・価値観がつくる社会があるということを知ることによって、われわれは、自分たちの社会を相対化することができる。つまり、われわれが大切だとしているものは、じつは、社会の流れの中でつくられたものでしかないのだと。(p.76)

後半部分の、いわば「小集団」については、『貧乏人の逆襲!----タダで生きる方法』を書いた松本哉という方(←同い年?)のやってる「素人の乱」てのを最近知ってね。ここで鶴見済と雨宮処凛と対談してんだけど、そこからちと引用。

松本:「全部よこせ」というとんでもない要求はいいね。このあいだの高円寺のデモのテーマでもあった。ちょっと話は違うかもしれないけど、イスラム教では仲間がいたらどんどん相互扶助をやるでしょ。また、レバノンでは、イスラエルに攻撃されて街がめちゃくちゃになったら、レバノン政府よりもヒズボラという民兵組織のほうがどんどん金もくれるし、地域を復興してくれて頼りになる。だから日本で言っても、ひたすら政府に全部やってもらわなくても、「素人の乱」だったら、ちゃんと洗濯機を運んであげたり、壊れたFAXを直してあげたりしたほうが、信頼にも繋がるんじゃないかなと思う。まあ、うちらは民兵組織じゃないから、戦ったりはしないけど(笑)。でも、全部国に頼るというよりも、もうちょっと信頼できるものが……まあ、「素人の乱」に頼られても困るけれども、地域の中で頼るべきものが、友達であったり、そういうものがいるというのが一番生きやすいような気がします。

鶴見:少なくとも、いまはそういうものがなさすぎるよね。全部国とかに一括して管理されてしまっているから、そういう段階があってもいいんじゃないかと。 コミュニティや地域の復活というのは大事だよね。でも人間関係、人付き合い能力が高くないとできないかもしれないから、引きこもり系の人は難しいかもしれない。

ここで書いたように、丸山も「小集団」には「個人の内面的自立化」と「個人の社会的主体化」を期待している。上の話と通じるわけだ。
国家が提供する一様の価値ではなく、自らの内的確信に基づいた「普遍的価値」を。それも絶対的な価値などではなく状況に適った判断から常にチェックされるべき「価値」。「好き嫌い」はもとより強迫観念的な「善悪」からも自由なところから発せられる「状況への発言」。多様なそれぞれの発言が、つねに関心と尊敬をもって迎えられる場。そこで鍛えられ淘汰された意見が上位社会ホロンにもやはり関心と尊敬をもって迎えられる社会。「だったらいいのにねー」というのが、今まで書いてきた内容である(たぶん)。ところで「「小集団」のこのような積極的役割を強調するさいにも、丸山氏がこの小集団を手放しに評価しているものでないことに注意せねばならない」(p.315)とは、なんともクールである。(『ホロン革命 別枠9』)

ちなみになんであの文脈で丸山が出てきたのかというと、丸山が「人間を総体的に、すなわちその合理面と非合理面の全体において捉える」(『丸山真男論ノート』、p.252)というから。冨田氏のインタビューについては、また別の切り口で取り上げようと思う〜。






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 最近読んでる本(笑)
2008/08/04



また随分間が空いてしまったが、個人的な話をそうでないものに繋げるつーのは時間がかかるということで(笑)。

前回持ち出した「性的虐待サバイバー」という言い方なんだけど、これまでネット上で見掛けてはいたものの、実は『子どもの性的虐待サバイバー----癒しのためのカウンセリング技法』(現代書館、1997)て本を借りるまではピンとこなかったんだ。被害者と言わずに「サバイバー」。通常子どもの頃虐待を受けた人って以降もその影響から免れ得ないわけだけど、それがなんでかっていったら、虐待されてたときに自ら身につけたサバイバル術をずっと使っているからなんだって。おぉ、なるほど、その通りだよって感じ(苦笑)。あたしで言えば例えばそれは「問題を問題視しない」ってことになるんだけど、確かにその戦術は当時虐待をやり過ごすのには有効だったにせよ、就職してからはそのせいでインシデントを起こしちゃったりするわけ(泣)。彼氏との間に問題が起きても見ないようにしちゃうわけ。問題を発見すると、まずはスルーしたくなるんだ。医療人としてはかなりの問題よ。まぁインシデント自体はもう10年くらい前の話だけど、当時の上司に「あんたがキチガイじゃないってことを文書に書いて出して。それまでは仕事させられない」って言われたよ……。
ままま、そんな感じで、患者が今抱えている問題と過去の虐待とを結び付けて考えて、今となってはとんちんかんなサバイバル術の無意識の行使を洗い出し、最終的には「サバイバーである」というアイデンティティの放棄を目指すというのが、この本にあるカウンセリングの方向性(多分)。読んでていちいち「うんうん」て感じなんで、セルフカウンセリングに使えるかもしれん。

さてこの本と一緒に借りたのが、たばこ総合研究センターというところが出してる『談』て雑誌でね(2007 no.79 特集<祝祭>する身体----陶酔と暴力のはざまで)。ここにある冨田晃て人の文章がすごく面白かったんだよ。文章というかインタビュー記事なんだけど、「カーニヴァルの身体----非合理性、死、美意識」というタイトルで、主にトリニダードのカーニヴァルをネタに、あちらの方と日本人のわれわれの生き方について語ってる、ととっていいのかな。以下の文章は、最後に「生きることに誠実であろうとすれば、どのような生き方がありうるのか」と問われての言。

前に言いましたように、死んだように生きていく、あるいは、生きるべくして死んでいくか、理念的にはその二つしかない。ただ実際には、その間で揺れ動きながら生きているというのが現状だろうと思います。それは決して悪いことではない。その中間で、そして、それを自覚的に生きていくこと、それをぼくは「したたかな健全さ」と呼んでいます。生きる、生き続けるということに最大限価値を置くとしたら、やはり生き続けられるための最良の方法をとらざるを得ない。そのためには、戦略もいるし、戦術も働かす。それはとりもなおさずしたたかであり続けるということです。人間として、本質として、時代を超えて守るべきもの、それがなんであるかは、人それぞれでしょう。つまらないものを守ってもしょうがない。気恥ずかしい言い方になるけれど、人に守るべきものがあるとしたら、それが愛というものなのかもしれない。それはわかりません。ただ、その価値の方向性だけはブレないようにしたいと思っています。その一つの基準となるのが身体だと思う。身体こそが健全さを決めるものだと思います。
追いつめられれば追いつめられるほど身体というもののありようにわれわれは気づかされます。身体を越えていく力に気づくかもしれないし、絶対に越えられないものが身体だと自覚することになるかもしれない。いずれにしても、身体は嘘をつきませんから。健全さをはかる一つの尺度になることだけは間違いない。結局最後の拠り所は、自分の身体だと思います。(p.78)

いきなり最後だけ切り取られてもワケワカランと思うけど(笑)、実はこの人の文章、この部分を最初に読んだんだ。かつ丁度あたしが「死んだように生きている」ようなときで、自分としてはそんな状態であることを苦々しく思ったりしてたんだけど、これ読んでラクになったんよ。「そうか、両極を行ったり来たりするのも戦術かもな」って。
で、最初のサバイバー本を思い出すに、戦術を変えることだってそりゃもちろんオッケーで、そう考えたらなんだか楽しくなってきてね(笑)。あたしの生き方はあたしが自由にデザインしてやるって、ひょっとしたらフツーに皆こんなことは思ってんのかもしれないけど、あたしはやっとそう思えるようになったんだ〜。こんなに清々しい気分になったのは初めてじゃないかな(苦笑)。
この二冊については、また改めて書くつもり。特に後者は、当たり前の話っちゃ話なんだけど、なんか感心したからさ。

カーニヴァルや祭りは非合理がその本質です。合理/非合理のバランスがとれている社会では、カーニヴァルや祭りも重要な意味をもってくるわけですが、合理性が勝る社会では、非合理の出る幕はありません。そして、合理が勝る世界では、生きることも、あまり意味がないのです。(p.66)





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ご無沙汰してました
2008/07/06



実は梁の本について書いてからずっと、自分の過去に囚われててねぇ(←性的虐待サバイバー)。途中でさすがにしんどくなって「なにそんなに真面目に生きようとしてんの」なんて思ってみても下手な強がりにしかならなくて、ほんとにこの1ヶ月半は言わば過去に生きてたね。そりゃ仕事はしてたけど久しぶりに離人感に襲われたし、まともじゃないのにまともなフリしてんのがほんっとしんどくって、秋葉原の事件が起きた時も「あたしとあいつと、なにが違うの」なんて思うくらいだった。浮上するきっかけがまるでなかった。
ところがそれがつい先日やってきたのよ。私が問題としていた「過去」をこしらえた奴から電話がきたんだ。電話であんなにしゃべったのは初めてだったし、奴からのメールを受け取ったのも初めてだった。やたら長文で、絵文字まで使ってて、用件だけじゃなく近況報告もあって、てめえの子供の画像まで添付してある。3回ほどやりとりして思ったのは(自分でもそんな風に思ったってことに驚いてるんだけど)、過去の化け物みたいな奴とは別に、「今の奴」はそれはそれで評価してやってもいいんじゃないかってこと。頑張って家庭回そうとして実際回してるって、あたしにはすごいことに思えるし。
兄を許すとか許さないとか、そういうのとは別の視点を今回得られたのは、やはり兄嫁と甥姪の存在が大きいかな。あいつらのことは手放しで好きだからさ(笑)。で、あいつらは手放しで兄を好いていて、かわいらしいちびっ子2人が「パパ〜」なんて言って一生懸命駆けていく光景を目の当たりにして「ああ、」と感慨深く思ったりしてきたし。そんな風にされるってことは、それなりのことを日々やってるってことだろうから。
ままま、そういうわけで、あたしは思いがけず「今」に復帰したわけだ(笑)。しかも奴からもたらされたってのが何とも不思議(苦笑)。生きてると色んなことがあるねぇ。


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『闇の子供たち』
2008/05/18



ある映画のニュース記事を読んでて、そのタイトル『闇の子供たち』を見た時に、「あれ?これ梁じゃねぇの?」と思ったら当たり(笑)。梁が「今度は臓器売買について書く」と言ってたのをどこかで見たのはいつだったかな〜〜〜。すっかり忘れていたよ。『あたしの一生 猫のダルシーの贈り物』を返すついでに借りてくる。
……借りてくるが、ここでだいたいの内容を先に見たために、数ページで読むのを止めてしまう。あたしはあたしを守らなくちゃいけないから(苦笑)。
児童売春に臓器売買。アフガニスタンの麻薬同様、世界(の暗部)がそれを欲しているなら無くならないさ。……って、諦めているんじゃないよ。梁が提示しているように(←多分)、アプローチの仕方を考えろってこと。

正義感に燃えて怒りを爆発させているといった調子に慣れている人の多くは面白がっているのは無関心な証拠だと誤った印象を受けるかもしれない。しかし何か新しい事態が生じてきたとき、腹を立てたり抗議したりしてことが済むのはごく初期的な段階での話である。われわれが今置かれている段階はすでにそれより遥かに進んでいる。しかも現状の中には破壊的な要素ばかりでなくあたらな発展の豊かな可能性が秘められており、正義感を爆発させているだけでははなはだ心許ないのである。(『機械の花嫁-----産業社会のフォークロア』、マーシャル・マクルーハン、竹内書店新社、1951)

アフガンの麻薬もそうだけど、この児童売春や臓器売買にもマフィアが絡んでいてね、ふと「やつらは人間(の欲望)ってものに対してえらく肉薄しているのかもしれない」、と思う。「われわれの敵は、われわれについて下す判断において、われわれ自身ではとてもそこまでは行けないほど真実に迫る」(『ラ・ロシュフコー箴言集』)。敵って言い方はどうかと思うけど、でもだからトドロフもコルテスに学ぼうとしたんだもんね。
「人間のもつ底なしの欲望」的なものをいきなり見せられると、普段はそんなこと考えてないからまともにショックを受けて「どうしようどうしよう」って右往左往するんだけど(←あたし)、これも環境問題と一緒で「できることからはじめよう」でいいんじゃないかな。……て、今日等々力渓谷を歩きながら「落としどころ」として思った(苦笑)。だって、やっぱりペドファイルを呪うだけじゃあ「はなはだ心許ない」気がするんだもん。それにヴェーバーのことを思い出したし。「ウェーバーは青年たちに向かって「日々の仕事に帰れ」と叱咤した。かれにとっては青年たちのこのような動揺は「流行」であり「時代病」であった。それは矯められるべき浮薄さであり、鍛えられるべき弱さであった」(『職業としての学問』旧訳の序、マックス・ウェーバー、尾高邦雄訳、岩波文庫)。そうだね、ナイーブなままではいかんね。
ところで、こんなところにこんな話を持ってくるのもどうかと思うんだけど、WIREDの記事で『食肉用ニワトリの4分の1は歩けない:調査結果』 てのがあって、それによると、「養鶏場のニワトリは短期間で成長させられるために、歩行もおぼつかない個体が少なくない」んだとか(「ニワトリの本来の寿命は6〜7年だが、食肉用には孵化後約40日程度で屠殺されるのが一般的だ」)。「畜産方式を改めることで、こうした悪影響を軽減できるだろう、と研究チームは提言しているが、いっそのこと食肉を工業的に培養し、動物を育てる過程は省いてしまうほうがましなのではないだろうか?」と記者は言う。そして、同日の記事には『「タンク培養の人工肉」普及は間近?:培養食肉シンポジウムからのレポート』というものがある(苦笑)。

私たちが現在食べている食肉を作る際、骨格や神経組織といった食用に適さない部分や代謝のために、家畜に与えた飼料の75〜95%が失われる。食肉の培養なら胴体は必要ない。最終的に食べる部分だけを作ることになる。

記事の文章を読んでると、ニワトリの話だというのに、8歳で売られていった姉妹や、勃起を持続させるためにペニスにホルモン剤を打たれる男の子、生きてるのに心臓を摘出される女の子の話とシンクロして戸惑ってしまう。全部『家畜人ヤプー』を読んでいると思ひたい(泣)。あと移植に関しては、病気腎の一件を想起すると、また印象が変わるかもしれない。あれってどういうことだったんだっけ。



追記;そういやこんなニュースがあったんだ。
動きだす「性依存症」への取り組み』医療・介護情報CBニュース






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挑戦的反応
2008/03/15



先日の昼休み。とことこと以前の部署に向かい、目的の人々を見つけると、壁に張りついて一言。「愚痴を言いに来ました……」。「どしたの?!」と驚かれる一方で、訳知りの後輩がヒヒヒと笑う。ああもう、我慢ならん。
結局20分も人の悪口に終始したんだが、それでも収まらず、その後も会う人会う人に愚痴を聞いてもらう始末。私が今回問題にした困ったちゃんは、もうすでに皆の中では困ったちゃんだったので、周囲の反応としては「ああ、とうとうあなたも……」的な、なんてーの?「おめーもいよいよこっちに来たか」とでもいうような、変な話、歓迎ムードすらそこにはあった(苦笑)。まぁそれはそれで有り難いんですけどね。なんか面白くないんだよね(爆)。
悪口言って、ある程度落ち着いたあとに、私は「どうしよう」と思った。ほとんどの人は彼女とは違う部署だから、遭遇するとしてもロッカー等限られた範囲だけど、あたしは同じ部署だもん。皆がくれたアドバイスは唯の一つだった。「『来ないで』オーラを出す!」(苦笑)。さらに後輩などはこう付け加えた。「いつでも愚痴聞きますから。また飲みに行きましょう!」。
いや、さっきも書いたけど、そう言ってくれんのはそりゃ有り難いは有り難いんだが、あたしはみんながやっているようにムカついたらどこかで愚痴吐いてオワリ〜ってのが無性にイヤなんだよーーーー(泣)。少なくともあと1年半はこの部署にいるわけだから、きっとそんな対症療法じゃおっつかないし。
「どうしよう」と思ったまま、その日はそのまま当直に突入。当直時間帯は、仕事がなければ比較的自由に過ごせるので本などを読む。と、そこへメールが(笑)。「へぇ、メールなんて珍しい」という先輩からで、「24日の飲み会のことかなぁ」と思って開けたらなんと愚痴。例の困ったちゃんに、ロッカーで会ったらしい〜〜(爆)。そういえば前日やはりロッカーで被害に遭ったという人がいたなと思い、え?ていうか、あたしだって異動してから5ヶ月経つけど、ムカつきはじめたのはここ2、3日だ……と思い至って、ちょっと戦慄。ひょっとしたら彼女になにかが起こっているのかも。彼女と同様、やはり人との距離がうまく掴めず友達出来ずじまいだった高校時代の知りあいが、卒業後レンタカーに乗ったまま海に突っ込んで死んだことなどを思い出す(泣)。
「なんとかしなくちゃー」。私はなぜか目の前の本をばらばら繰りはじめた。「なんかねぇのかよ」。ちなみに本は『社会性の哲学』(今村仁司、岩波書店、 2007)。そしたらね、あったよ。第2部第3篇第1章の脱線部分。「三、驚きと違和感」。
「深く知るとはどういうことであろうか」と著者は言う。「「知る」はここでは広い意味で理解しておく。知ることに加えて「深く」という。(略)この「深さ」が生じるためには、ひとまず日常的になじんだ知識やそのたぐいから抜け出していなくてはならない」(p.484)。更に、「何かを知ることは、一般に、何かから距離をとることである」(p.484)、と話は進む。しかし距離をとるといってもそう単純ではなく、「知覚にとって適度な距離というものがある」(p.485)そうな。「距離化は、遠ざけと近づけの二つの力から構成される。「知る」または知覚は、遠ざけと近づけの「関係」である。距離とは、「離れること」を「阻止すること」である」(p.485)。

この日常的なふるまいを抽象化して言い換えると、次のようになる。未分化な状態にくさびを入れて、主体と客体を分離し、生成させることが、「知る」ことである。そのとき、主体は、自己が対象を「知っている」ことを「知っている」。主体は知のなかで自己を意識し始める。あるいは知る自己をこんどは客体化し始める。これが自己の認識の始まりである。「知る」は対象を知るばかりでなく、自己をも知るのである。この自己認識は重要であるが、さらに自己のあり方を変容させることが決定的である。認識は自己変容を目指すかぎりで有意義になる。(p.485)

ああ、『他者の記号学』だねぇ(溜息)。やっぱり彼女をどうするというよりも「あたしをどうする?」て話なのかなー。
「しかし、何かと距離をとりつつ関係を維持することだけでは、真実に知ることにはならない」(p.485)と著者は続ける。「たしかにそれはすでにひとつの知識ではあるが、まだ深く知ることではない」。

知が深くなるためには、ノーマルな知(日常的な知覚、経験的な対象化、経験的な表象やイメージをつくること)を揺るがし、そこから極端なまでに距離をとり、その距離化する主体の認識行為をいわば異常なものにする奇形にすることが必要である。ノーマルな知はなじみ深い知である。(略)誰もその種の知をあやしむものはいない。このなじみある知、近しい知、アットホームな知を根底から揺るがし、異常に見えるようにすること、つまり正常のなかに異常を出現させること、それが驚きを生み出す。驚くことはアブノーマルな状態へ自分を追い込むことである。あるいは他人を異常な状態におくことである。深い知は、深く知ることは、深く驚くことなしにはありえない。正常さの陰に控えている真実を把握するためには、深い驚きなしにはありえない。驚きは真実の知にとっての根本条件である。(略)
(略)驚くことは主体の実存、生き方を根源から変換するごとき精神の構えである。自分の信じてきた当たり前の生き方を根底からくつがえし、一変させて、新しい実存を新しい生き方へと転換させる、つまり自分がそのなかで生きている世界に対してまったく新しい関わり方(他人からみればアブノーマルにみえる生き方)に変貌させることである。通常の生き方も世界に対してある程度の距離をとっているが、その通常の距離化とはまったく違う深度をもつ距離をとるのでなくてはならない。これまでの生き方、これまでの感じ方、これまでの知り方を根本から疑い、別の見方、感じ方をするのである。(p.485)

あうー、言ってることは分かるけど、それってすごい、しんどいよぅ(泣)。

われわれは、世俗の人間として生きるかぎり常識人間である。常識人間は、正常を高く評価し、現状を追認してホッとする。身近さや慣れ親しみのなかに安堵の念をもって生きる。常軌を逸するものを極端に憎み、異常さを排除する。これが正常な人間の正常な知覚であり、感じ方であり、生き方である。政治的秩序はそうした感じ方を必要とするし、秩序とは異常の排除である。しかし真実の認識はそれとはまったく違う。学的であれ劇的・芸術的であれ、真実の認識は、正常さのなかに異常さを洞察し、正常さは異常さの「ゆがんだ」姿であると喝破するのである。正常で通俗的な知識は、むしろ歪曲された、不完全な知識であり、だからこそそこに批判精神のメスが入れられるのでなくてはならない。(p.490)

安部の『内なる辺境』を思い出すな。あとなんとなく石堂の『異端の視点』(苦笑)。それからクンデラ。

[人類学において]現地調査研究と民族誌を書くことは、異文化と出会うことによって、自分が属する文化を内部から反省し、いわば異国人の目で自分の文化を眺めることを学ぶことである。あるいは異邦人のセンスを身につけて、自分の文化をあたかも異文化であるかのように考察する批判的精神を駆使する訓練をするのである。その意味では、人類学者は自分の文化のなかでいったん死者になるに等しい。現地調査は異文化経験であり、そのなかで自分の文化の死体解剖をすることであり、異文化のなかで自分の文化から見ての死者になる経験を積むことでもある。そうした経験を経て、つまり回り道を通って人類学者は、いわば新しい人間へと生まれ変わるのである。それは内面的変革であり、心身をまるごと変えることである。これは古くからいわれてきた一種の「回心(コンヴァージョン)」である。(略)真実の認識のためには、デペイズマンを経験すること、異質なものを通過すること、を不可欠の条件とする。それは知ることのための基本条件である。認識の門に入るためには、心身ともに全面的に変革すること、生き方の方向転換をすることをあらかじめ実現しておかなくてはならない。 (p.491)

回心といえばラス・カサス。彼の内面的変革は感動的だった。しかし次に示す段落は、そういえば認識はテクに通ずるのだということを思い出させる。

ところで、相手から同じ態度を引き出すことは、単なる物や道具の提示によるだけではできないことである。(略) そのように相手を動かすためには、人間にとってもっとも実行しがたく、しかしもっとも高貴でもある行為しかありえない。実行しがたいというのは、人間は自己保存的行為を選ぶからであり、自己破壊的行為はもっとも実行しがたいからである。しかし人間たちが社会的交渉に入るためには、自己破壊的な行為をしなくてはならない。自己保存に打ち勝つのは勇気の徳が必要である。なぜなら、自己破壊は、象徴的形式をとるときでも自己の死を予想するからだ。勇気によって自己保存傾向に打ち勝ち、あえて自己の生命を危険にさらし、死ぬ覚悟を相手に提示することだけが、相手の挑戦的反応を否応なく引き出す唯一の手段である。(p.493)

「人間の精神はこのような挑戦的応酬のなかで鍛えられ、動物的感情や対象埋没的意識から解放されて、本来の精神としての自己意識へと飛躍する」 (p.493)。ああ、ラ・ロシュフコーが言っていたことも同じことなのかもしれない。

友情にとって最大の冒険は、自分の欠点を友達に明かすことではない。友達の欠点を彼自身に見させることである。 (『ラ・ロシュフコー箴言集』)

ままま、いろいろ目にしたけど、あんまりゴリッパなことはできないにせよ、こちらのアクションを変えればリアクションも変わるだろうぐらいなところで、ちょこっとアタマを作り直したのだった。おかげで翌朝は彼女とふつーにやり取りできたよ(笑)。
……ところが、更に翌日。「彼女はいいとして、そういえばまだ困ったやつらが2人ほどいるのだ(ゆえに他部署から「吹き溜まり」と言われているのだ)」とい うことを思い知らされる事態が。キレかかってたよ、ほんとに。うう、なんとかしないと〜〜〜(泣)。






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未来社会への変革』に付随して
2007/03/18



ここんとこ職場で受けるストレスがひどい。そんな日々の中めちゃくちゃウケたのが「お札deおりがみ」のターバン野口。折り方はこちら「YouTube - 折り紙・ターバン野口の折り方」。バックの歌がまたいい。皆さんもゼヒ。
えっと、『未来社会への変革』という本でコミュニティについて見ているところだけど(多分)、それに関して「ああ」と思ったことをちょっと並べておこうかと思って。

仕事が嫌いでも同僚が好きなら離職せず=米調査 (ロイター)
ワシントン大学のトーマス・リー氏は「好きではない仕事にとどまるのは同僚との関わりがあるからです」と指摘。研究チームは、職場での一体感が離職率の低下につながるとしている。
うちの病院(に限ったことではないのかもしれないが)、ナースの離職率がすごいらしくてね…。間接的にでも話聞いてると、仕事キツイ上に(やはり)上がバカなんだなぁって感じで、引き止めるのも悪い気がしてくる。仕事が大変でも「この人と一緒に仕事がしたい」ていう魅力的な人がいたらいいのにぃ。

「社歌」ブームの兆し 本が売れ、カラオケ店も登場 (J-CAST)
文芸春秋は、「本に登場する社歌を、その会社の社員が読んで、『うちにも社歌があったのか』『社員の結束が強まった』などといった感想が寄せられています」 と話した。どうやら、社歌があるというのは嬉しいことらしい。
嬉しいか??まぁ「職場に共同体を築く」一助になれば(笑)。



よい子の社会主義』より以下引用。
探偵のゲーデル先生と助手のカンパネルラ君との対話形式(笑)。ずぅっと更新されてないなぁと思ってたら、場は冬弓舎に移っていたらしい。

よい子のボランティア
「ボランティアやNPOが大事なんて口車にいくらのせられても、結局は廉価・無料の労働力が欲しい連中の思うつぼじゃないですか」というカンパネルラ君の放つ問いにはそれなり「うんうん」と思う。
ゲーデル
そうだろうか。ボランティアとは人のことだけれども、それは「お金を貰わず働く人」のことでもなければ、「自発的に働く人」のことでもない。ましてや「社会奉仕を行う人」のことでもない。それは「同時にいくつかの仕事を引き受ける人」のことだ。
(略)
ゲーデル
話を元に戻そう。ある人は、会社につとめており、自分で市民団体を運営しており、またとある施設でいわゆるボランティア活動をしている。会社からは1時間あたり2000円の給与を受け取り、自分の運営する市民団体は無給(どころか持ち出し)、ボランティア活動では交通費として1回1000円を受け取っている。それぞれを同一の基準のもとに平準化することは難しいけれども、この人がそれぞれの仕事でそれぞれ違った「値段」の対価を受け取っている(それぞれの場面で、違う価格で自分の労働力を提供している)ことは確かである。これを「私が提供する労働力は同じであるから、同じだけの賃金をいただこう(一物一価を貫こう)」としたらどうだろう。市場メカニズムではしばしば、もっとも生産性の高いものが価格の決定権を握る(この場合なら、もっとも彼に高く支払える会社が彼の同一賃金を決めている)。そして一物一価を実現する市場メカニズムでみたように、いくつかの取引が失われる。つまり、市民団体やボランティア活動は、彼にそれだけの価格を支払えないので、「取引」が成立しなくなる。一物多価なら「出会えた」市民団体の活動やボランティア活動が、今や彼の前から消えることになる。

カンパネルラ
なんか当たり前のことを難しく言ってるんじゃないですか。

ゲーデル
そうとも。ボランティア活動だから無償でなければならない、なんて話はこれで卒業できるだろう。ボランティアは「同時にいくつかの仕事を引き受ける人」であり、そのためには自分の労働力の値段が一物多価であることを辞さない。場合によっては、会社からの1時間2000円よりももっとたくさん貰う場面があってもよい訳だ。


よい子の新世界
引用部分は「会社では上司だが、NOVAではNOVA友」て話。
ゲーデル
共通の理想を抱える「自覚した人間」ばかりが集まれば、理想の社会がつくれるなんて戯言は、フーリエから一番遠いものだった(そこでは粛正や内ケバが起こるだろう)。そこまで高邁な理想を抱えなくても、一つの(理想的)共同体が、個人の人格と生活のすべてを包み込むのでは、かならずや圧制としての共同体になってしまう(そこでは同調圧力ピア・プレッシャーによる圧制やイジメが起こるだろう)。

カンパネルラ
理屈はよくわかりませんが、あの人たちの息苦しさはひしひしと感じます。

ゲーデル
王様を倒そうと、商品経済から離れて原始共産制的なコミュニティを作ろうとも、そのコミュニティの中でまたミクロな圧制が始まることをフーリエは見逃さなかった。
 
カンパネルラ
では、どうすればいいんですか?

ゲーデル
フーリエの社会統合のキモは、たくさんの情念集団と集団の系列に組織化することだった。ひとりの人間はいろんな欲望や特徴やらを持っているだろう。同じ情念をもつ人をグループ(系列)にすれば、ひとりの人間は複数のグループ(系列)に属することになる。つまり多元所属だね。多元所属する人は、たった一つの集団にしか属さない人よりもずっと同調圧力に耐えられる。いやだったら、他にいくつでも属する集団があるから、いやがらせを耐える必要がない。逆に全生活をひとつの集団に依存していれば、いやだからといって抜けることができない。他者からの承認欲求も地位獲得も生活資源もすべてがただ政治権力だけに依存する社会主義国家では、上からの圧制ばかりでなく、いちばん怖いのは仲間同士(ピア・プレッシャー)だ。だから密告だって多い。

カンパネルラ
マクロな社会主義が、ミクロな全体主義につながるんですね。

ゲーデル
また、そうしてできたひとつひとつのグループ(系列)には、いろんな人が、いろんな年齢や財産や性格や知能の違いを持った人が所属してる。ある系列のうちで存在する相違は、系列の外にある身分や財産でなしに、系列の特定の職務の適性による。けん玉系列では、年功序列でも財産でも現代思想の本を数多く読んでいるからでもなく、ただけん玉の適性によって、甲乙がつくというわけだ。しかも一人は数多くの情念を持つから、数多くの集団に所属することになる。わずか 一日の間に多種多様な仲間と出会い、多種多様な役割を果たす。あっちでは指導に当たり、こっちでは指導されるなんてことになる。ある系列での宿敵がある系列での親友になる。敵愾心は個人に発揮されにくくなる。






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「世界」と日常、そして他者
2007/02/12



今更だが、飯島愛が一つ上だとは思わなかったよ〜。もっとずっと上のような気がしてたけどな。同様に、新海誠監督が同い年だったとは。
YAHOO! のサイトで監督の今までの作品をざっと見ても分かることだが、監督は「世界」という言葉をひとつのキーワードとして使う。「世界」ということ、あたしも最近思ってたんだよねぇ。


このところ、同じ時間に同じ駅に向かって歩く人々を「この人たちはそれぞれが別の「世界」に生きてるんだなぁ」と眺めることがある。それぞれが、それぞれの事情により、あたしと同じ7:54発の電車に乗るべく毎日この道を歩いたり走ったりしているわけだ。学生さん、OLさん、ちびっこを連れたお父さん等々。生きてる「世界」が違うのは当たり前っちゃ当たり前なんだが、一方で「同じ時間帯に通勤/通学するから、毎日ではないにせよよく会う」ということで、変な連帯感をもっていたりもする。なんだろう、大袈裟な表現を使えば「同時代人」??まったく違う「世界」にお互い生きていながら、それが時に交わるというのが、ものすごく不思議な感じがするんだよ。
例えばさ、幼稚園に行っているような女の子を後ろに乗せて、お父さんが自転車をこぎつつあたしを追い越していくんだけど、ある日お父さんがね、女の子に 「あんなに頑張ったんだからきっと大丈夫だよ」と言ってるのが聞こえたのよ。で、数日後。今度はお父さんがやはりあたしを追い越しながら女の子に「この次は絶対上手くいくって」って言っていて(笑)、「あらぁ、この前は上手くいかなかったのかしら〜」とか思うわけよ。「なんだかわかんないけど良いお父さんだなぁ」。

あたしが言う「世界」って、要は「世界観」ってやつ。それはそれぞれの「日常」から作られると思うから、自分の日常+日常見聞きする範囲がすなわち我々のいう「世界」になるんじゃないかな。つまり、われわれの「世界」という認識と、実際の世界というのはえらい異なるということ。前者は、実はひどく狭いんだね。
「世界」がイコール「日常」であるとしたら、どういう「世界」に生きるかは当人次第ってことになる。よね?そういやこの前電車に乗ってたらね、渋谷に着いたところで大勢人が乗ってきたのよ。で、押されるままに詰めようとしたんだけど、私が押すはめになった女の子がカチンときたのかあたしに肘鉄食らわしてきて(泣)。一歩たりとも動くものかって感じで腰を落として構えてるし、あたしからすればワケワカランって感じだけど、そのとき思ったのは「この人、どうい う世界に生きてるんだろう」ってこと(苦笑)。なんかお気の毒って思っちゃったな。
『バカの壁』のところでも書いたけど、「世界」に対するアクション次第では、そのリアクションも当然それ相応のものになると思われる。で、仮にそのリアクションが心地良いものであったとしたら、徐々に「世界」を信頼できるようになっていくんじゃないだろうか。で、とどの詰まり「世界」とは「(日常やりとりをする)他者」であることを考えると、じゃあ具体的に何をどうしたらハッピーな「世界」に生きられるかというのが見えてくる。かなぁと最近思う(笑)。


先に挙げた「通勤時に遭遇する人々」は、ほぼ毎日見かけるが声をかけることはまずない。一方で例えば採血室でお会いする患者さんは、その場限りではあるもののこちらとのやりとりが発生する。したがってこちらのほうが前述の「不思議感」は強い。というのも、あたしとはまったく違う「世界」を実際垣間見せてくれるから。多くの患者さんは世代が違うし、場合によっては性別も違って、社会的階層も違う。男女の間ではよく使われる言い回しだが、「別の生き物なのに言葉が通じる!」というくらいの不思議感である。「戦争に行ってこっちの指が3本吹っ飛んだんだけどアメリカ軍にくっつけてもらった」とか「交通事故に遭って、だからここに来てるんだけど、車に乗ってたのが好青年でねぇ。あなた独身でしょ。どう?」とか「町医者に行ったら血管が見つからないって言われて、だからここに来たのよ!」とか「久しぶりに船を降りたから病院に」とか「血液サラサラにするために毎日タマネギ食べてんだよ。いいんでしょ?タマネギ」とか。「なんですって?」。「あたしね、これまで病気らしい病気ってしたことなかったの。でもこの病気になってからね、人の痛みってのが分かるようになった気がするのよ。遅すぎるんだけど。あたしってダメね」とか、「夕べ食べちゃったのよ。だって三社祭だったから」とか、「あんたと同じくらいの娘がいるんだけど、結婚してくれないんだよ。弁護士なんだけどね。あんたも独身でしょ?なんで結婚しないの?」とか、「ついこの間まで隣で働いてたんです。でも飛ばされちゃって……。この病院に30秒で来れるってのが自慢だったのに……」とか。
患者さんが本日うちの病院に来たのは偶然かもしれない。しかもあたしは毎日採血室にいるわけじゃないからなおさら今目の前に腰掛けてもらった患者さんとはご縁があるのだなぁと思う。ふつーだったら相互の「日常」は交わらないんだからね。考え過ぎ?でもそうやって得られた機会を、お互い楽しいもの(?)にできたらいいじゃん〜。……それにはまず第一に「採血失敗しない」ということが前提だが。あとはエスプリ。
「お互い楽しいものに〜」というサービスや気遣いを、これまでは受ける一方だったような気がするけど、あたしもいい歳になって思うのは、これからは、つーか今後はますますそれを提供する側になっていくのでは?ってこと。採血が嫌で嫌で、でもやらなきゃならんというのも分かってるし、ぐずぐずしてたら他の患者さん&病院スタッフに迷惑がかかるということも分かってるけど採血イヤだぁっていう高校生を前にどうするか、とかね。未だ上手く応対できないんだけど(苦笑)。「い、痛いですか?」「うーむ……。痛くないと言えば嘘になるなぁ」「うわぁ、やだあ」。もしくは「痛いですか……?」「うん……。針刺すからねぇ」 「そうですよねぇ(溜息)」。ああぁ、あたしはおばちゃん連中(←スタッフ)みたいに「痛くないよぉ♪」とはまだ言えんのよー。
私が針を刺しても稀に「全然痛くないよ。上手だねー」と言われることがある。なので、もしかしたらベテランおばちゃん連中は「痛くない採血」というのができるのかもしれない。

話がそれたな。でね、更にいうなら、「袖触れ合うも〜」という方々にやっていることを、もっと近しい人にもやったらどうかって。くそ忙しい時にドクターからかかってきた検査結果の催促電話を、「これから測りますから」とぶっきらぼうに言って受話器放り出すようにガシャって切るなんてどうなの??と思うわけよ。患者さんには絶対しないでしょ、そんなこと。だったら誰に対してもすんなって(苦笑)。心証悪くなるよ〜。しかも「そいつ」ってんじゃなくて「検査部」のさ。他部署と一緒になにかやるってときに上手くいかなくなっちゃう。
いやまぁ、あたしも常にできてるわけじゃないんだけどね……。電話について、「どうして『今よろしいですか?』の一言が言えんのかと思うよね」とドクターに愚痴られ、「あ、あたしも言ってない」。ついねー、アワアワしちゃって、早くドクターに伝えて楽になりたい!って風になるんだよぉ。すいません。そうだよね、ドクターなんて特に、そのとき何やってるかなんてわかんないもんね。外来中ならまだしも最悪心臓マッサージとか(泣)。


他者に対してなにをどうするかで「世界」が変わるんなら、誰かとやりとりをするシーンというのは言わば「世界」を創造するチャンスというわけだ。そう考えると、成功本でよく言われる「人の悪口を言わない」というのはナルホドって感じ。あと「機会をとらえて『ありがとう』と言う」とかね。
……にしても、あの電車で会った女の子に「すみませんが大勢の方が乗ってこられたので今一歩詰めていただけませんでしょうか」って言ったら、あたしの世界もちと変わったかな、と思う。でも公共の場で知らない人になにがしかを言うって、すごく怖い〜。やっぱ止めとこ。彼女のような存在も、「やっぱ止めとこ」とあたしに言わせる現実も「あたしの世界」に含まれる、というところでとりあえずは良しとするかな(苦笑)。

我々の日常には波瀾(はらん)に満ちたドラマも劇的な変節も突然の天啓もほとんどありませんが、それでも結局のところ、世界は生き続けるに足る滋味や美しさをそこここに湛(たた)えています。

現実のそういう側面をフィルムの中に切り取り、観終わった後に、見慣れた風景がいつもより輝いて見えるような、そんな日常によりそった作品を目指しています。

新海誠監督 本作[秒速5センチメートル]に寄せて」より


おまけの銀色夏生。

近づいて近づいて
ずっと近づいて
触れるほど近く
そして
そのくせ
どこよりも遠い
へだたりがあるように
尊敬の気持ちで

近ければ近いほど
遠いところにいる人のように
接することが大切で

遠い人ほど
他人ほど
一瞬だけ出会う人ほど
親しげに
心をひらく

(銀色夏生、『詩集 小さな手紙』 )

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未来社会への変革』つづきの前に
2007/01/21



先日飲みの定例会があったんだが、そこで最近婚約した女の子の話が出て、結婚した後仕事はどーすんだろと一人が口にしたところ、彼女のお友達が「もう仕事はしたくないって言ってました」と言った。「そーだよなぁ。仕事なんてしたくないよなぁ」とシャンパン飲みながらあたしが言うと、先輩といっていい女の子が「そう?本当に仕事したくない?」と言い出した。ぐっと詰まってついマジレス。「いや。3ヶ月も好き勝手したら何かしたくなると思いますよ」「でしょー?」。
続けて話したのはうちの父親の話。親父が退職してしばらく後にまた働き始めると聞いたときは「ワケワカラン」て感じだったが、あとで「ああ」と思い当たり、また当人にも聞いて「やはり」と思ったのは、仕事辞めると、それに付随した人付き合いも同時にごっそり失うのだということ。社会的なつながりがなくなる!仕事したい/したくないじゃなくて、そういうことなんだね〜。(仕事に行かないと朝から飲みはじめてしまう自分がコワイ、というのもあったらしい。わかるぅ。)
更に、来年退職予定のうちの上司が、なんだ?退職後の健康の秘訣なのか?話してたことを顕微鏡見ながら小耳に挟んだんだが、それによると「一日一回、心から大笑いすることと、一日一回、知らない人と話をすること」と言っていて、後者については「朝の通勤時間帯に家の前を掃いていればいいんだって。で、『おはようございます』って言えばいいって」。
だから要するにコミュニティなんだね。そうなんだよ、あたしに早く文章書けってね(?)。
昨年末にここでドラッカーの文章を紹介したが、彼がいっていた「非政府、非民間企業、非営利的な組織」というのはつまりNPO(非営利組織)のことで(NPOと言われて「え?」と構えてしまう向きには「ボランティア」と言ったほうがまだ身近かな)、実は今手元にドラッカーの『非営利組織の経営 原理と実践』(ダイヤモンド社、1991)という本がある(笑)。どうもこの本は日本のNPOからしたらバイブルみたいなもんらしい。

アメリカ社会について論ずるとき、とくに日本人のコメンテーターは、必ずといってよいほど、アメリカの個人主義を強調する。日本人のコメンテーターは、それを、日本社会の緊密なコミュニティの結束と対比させる。しかし、アメリカに住むようになった日本人、たとえばアメリカの中西部や南部の小さな町で日系自動車工場を経営するようになった日本人の役員は、必ず、アメリカの非営利機関におけるボランティアの強力かつ緊密なコミュニティに驚く。(p.iii←日本語版への序文)

アメリカには、政府機関や企業においてフルタイムで働く人たちや学校教師からなるボランティア、すなわち、自分の余った時間の大半を使って、教会や、ボーイスカウト、ガールスカウトのようなコミュニティサービス機関や、心臓協会のようなコミュニティの保健関係機関などのために働くボランティアが、基本的な要員となり、かつ、たいていは彼らが管理し、運営しているという非営利機関が多数存在しているのである。彼らは、報酬を払われることはない。しかし、彼らは一般に、自らの時間の多くを自らが選択した非営利機関のために働くことに使っている。まさに、非営利機関は、アメリカにおいて最大の「雇用者」になっているのである。アメリカの成人の二人に一人、総数にして九〇〇〇万人の男女が、非営利機関で「無給のスタッフ」として働き、この「第二の仕事」に週当たり最低でも三時間、平均して五時間を使っている。(p.ii)

まさに、非営利機関、とくにボランティアを基盤とした非営利機関は、アメリカ社会の最も際立った特徴となっている。アメリカの成人の大半にとって、それは、真のコミュニティを構築するものとなっている。アメリカの成人の大半にとってそれは、日本語でいえば、まさしく「家」なのである。しかし、それは、選択自由のコミュニティであり、容易に参加できるだけでなく、容易にかつ苦痛なくやめることのできるコミュニティである。
(略)
要するに、今日、アメリカ人の成人の半数が毎週働いているセクター、つまりアメリカ社会の非営利セクターは、アメリカ人が自己充足と成果を求め、それらを見出す社会的領域となっているのである。日本人が、その職場である会社や政府機関と自分とを同一視するのに対し、アメリカ人は、自らがボランティアとして働く教会、毎週末に働くコミュニティサービス機関、アメリカの公的教育の統一機関であり、自らが委員を務め、毎週水曜日の夕方から六、七時間会合する地域の教育委員会などのなかに、個人が違いを生み出すことのできる領域と個人にとって最大の意味をもつ活動を見出しているといえるのである。(p.iii)

非営利機関はそれ自体が、日本の読者にとっては、興味深く、重要なものであるにちがいない。日本の社会にとっても、非営利機関はますます重要になるにちがいない。あらゆる工業化社会において、社会的なニーズや、社会的な要求や、社会的な期待が急速に高まりつつある。しかも同時に、それらの社会的挑戦を満足させるための政府の能力は、ますます限界に達しつつある。(略)すでにアメリカでは、スラム街の子供の教育、アルコール中毒患者や麻薬患者の更生、都会の青少年の非行化の防止など、重要な社会的領域においてこの三〇年から四〇年の間に見られた成功らしきものはすべて、非営利機関によって成し遂げられてきたのである。(p.iv)


ボーイスカウト!そうか、そうだよねぇ、って感じ。で、アメリカ人がボランティア活動に「個人にとって最大の意味」を見出しているのなら、逆に連中の仕事に対するドライさ加減というのも頷ける(あくまでイメージだけど)。「民間企業分野は、人生を作り上げる手段ではなく、ますます生計を得る手段になっている」(『未来社会への変革』、p.20)というわけだね。ちなみにあの「ドラッカー財団」とは、正式には「非営利組織のためのピーター・F・ドラッカー財団」というようである。
いいんじゃん、NPO(←影響されやすい人)。家が「家」足り得なくなっても、他に「家」があったら子供も大人もそんなにすぐにはおかしなことにはならないかもしれない。会社や学校や家庭とは違う役割がそこにはあって、無報酬という違う価値観のもとに働く。うちの親父も、フルで働いて給料もらうんじゃなくてボランティアだったら自分の体調に合わせて仕事もできるだろうに。でも「自分の稼ぎで孫になにか買ってやりたい」とか言うからな(苦笑)。つーか、年金だけで暮らせないなら働かなくちゃ〜。年寄りだけじゃなく若い子だって、まずは自分を喰わせないとボランティアどころじゃないか。……そういやNPOに「雇用機会拡充支援」てのがあったな。まぁ詳しくは以下のページでも。

日本NPOセンター
http://www.jnpoc.ne.jp/






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