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「ミラン・クンデラと小説」
赤塚若樹 水声社 2000
2001/03/25



第1章 キッチュとは何か

そういえば当たり前のようにミラン・クンデラと言っているが、ここで簡単に彼について書いておくと、クンデラは1929年チェコ生まれで、今は亡命先のフランスで活動している作家である。代表作はいくつかあるが、『存在の耐えられない軽さ』の作者だと言ったら「へぇ」と思う人もいるだろう(てか、私がそうだった)。
さて、のっけからキッチュキッチュとやや興奮気味の私だが、クンデラがどうしてキッチュを問題としているのかを一言で言うなら、彼はそれを「小説の敵」と捉えているからである。この小説の敵には他に2つあり、1つは「アジェラスト(笑わない者、ユーモアのセンスのない者)」、もう1つは「紋切り型の考えの非-思考」だと言う。加えてこの3つは、同じ根をもつ1つの敵だとも述べている。この文脈におけるキッチュの定義を彼自身の言葉で見てみよう、ということで、この本の著者の赤塚氏は2つの引用文を載せている。

キッチュという言葉は、どんなことをしてでも、大多数の人びとに気に入ってもらいたいと望む者の態度をあらわしています。気に入ってもらうためには、あらゆる人びとが理解したいと望んでいることを確認し、紋切り型の考えに仕えなければなりません。キッチュとは、紋切り型の考えの愚かしさを美しさと情緒の言葉に翻訳することなのです。キッチュは、私たち自身にたいする感動の涙を、私たちが考えたり感じたりする平凡なことにたいする 涙を私たちに流させます。

どうしても気に入られ、そうすることによって大多数の人びとの関心を得なければならないという必要を考えてみれば、マス・メディアの美学はキッチュの美学にならざるをえません。マス・メディアが私たちの生活のすべてを包囲し、そこに浸透するにつれて、キッチュは私たちの美学にそして私たちの日常の道徳に なっていきます。最近まで、モダニズムは紋切り型の考えとキッチュにたいする非順応的抵抗を意味していました。今日では、モダニティはマス・メディアの途方もない活力と一体になっていますし、モダンであるということは、時代に乗り遅れないようにするためのすさまじい努力、このうえなく型どおりであるよりも さらに型どおりであろうとするためのすさまじい努力を意味しています。モダニティはキッチュというドレスを身にまとったのです。

赤塚氏は言う。「問題のキッチュについては、ひとまずここで、クンデラが『どんなことをしてでも、大多数の人びとに気に入ってもらいたいと望む者の態度』とみなしていることを記憶に置くことにしよう」。そしてキッチュについての本題に入る前に、非常に丁寧な説明を加えている。つまり、クンデラ作品を見ていくには、まずこの広大な意味内容を含むキッチュという概念を理解しなければならず、しかもクンデラにおいてはいわゆるキッチュの美的側面ではなく倫理的側面のほうがより重視されているため、彼のキッチュの用語法をも理解しなければならない、というのだ。
赤塚氏は始めにキッチュの一般的な理解を、辞書における定義として表している。つまり「通俗なもの、俗悪なもの」というやつだ。しかしクンデラにおいてはキッチュは「もの」を指すのではなく(前のページでも書いたように)通俗な「こと」という人間の態度をいうのだ。次に赤塚氏はその「キッチュという態度」について述べていく。
「(クンデラのいう)キッチュとは何か」という話をする際に赤塚氏は多くの本を援用しているが、基本的な部分はアブラアム・モル『キッチュの心理学』とマティ・カリネスク『モダンの五つの顔-----モダン・アヴァンギャルド・デカダンス・キッチュ・ポストモダン』に依っているように思われる。赤塚氏は次のようなモルの言葉を引用している。

キッチュとは、まず何より、人が物との間に結ぶ関係のひとつのタイプである。ひとつの具体的な物についてそれをキッチュであると言ったり、あるいは一つの様式をキッチュであると言ったりするよりは、人間の存在の仕方そのものについて、一つの型(タイプ)をキッチュと言った方が適当なのである。

しばらく赤塚氏はモルの本に従って、キッチュと消費社会について話を進めていく。キッチュ(という言葉)が生まれたのは19世紀中頃で、そのとき興隆してきた市民社会において発生したのだとモルは言う。市民社会はその後大衆社会となり消費社会へとつながってゆく。赤塚氏はモルの言葉を次のように要約している。

もし消費社会を、そこに属する同時代の人びとが、消費にともなう「物語」を好んで共有しようとする社会というふうに理解してよいなら、キッチュは何よりもその「物語」に結びついた現象とみなしてよいだろう。

消費にともなう物語、というのは、分りやすく言えばステイタスである。物自体ではなく、その物に附随する何かしらの意味を求める。「俺は金持ってんぞー」と、その物が彼の代弁をするがゆえに、彼はその物を買うのである(なんかいきなり身近な話になってきた)。更に言えば、彼がその物を持っているからといって必ずしも金持ちであるとは限らず、大抵はその逆なのだ(後述するがここにキッチュが「自己欺瞞」と言われる側面がある)。彼同様キッチュにどっぷり浸かっている人間にとって彼は(自分より)金持ちに見えるかもしれないが、キッチュを見抜く人間にしてみれば彼は甚だしく滑稽である。しかしそのような人間は少数だし、言ってしまえばキッチュから逃れられている人間などいないのである。
キッチュには美的側面と倫理的側面があると前述したが、これはもちろんまったく別個な話としてあるわけではない。「芸術とキッチュ」ということでいくつかモルの文章を見てみよう。

独創性と陳腐とを一定の割合において共に内に含んでいるのが芸術であるのに対し、キッチュは、中庸を求めて、独創と陳腐の間を揺れ動く動きとして現れてくる。

名もない人びとの集団によって楽しみが社会的に受け入れられていく、その動きがキッチュである。この社会集団は、穏健でなまぬるい「悪趣味」の持ち主なのだが、「徳は中庸にある」のだ。そしてキッチュとは、まさにその中庸の徳に他ならないのである。キッチュとは、それ故、そのようなあり方、様態 le mode なのであって、流行 la mode なのではない。

芸術家は、大衆の趣味というものを多かれ少なかれ是認し、これに妥協しようとする。鑑賞する方の側でも、のっぴきならない形で芸術作品にのめりこむよりは、充分な余裕をもって楽しもうとする。無趣味の中にひとかけらの趣味が見いだされ、醜悪さの中に一編の芸術が見出されれば、それで充分なのだ。駅の待合い室の電灯の下には、一枝のやどり木が飾られ、通路には、ふち飾りのついた鏡がおかれ、居間のテレビの上には造花が飾られる。そして、道具箱はヴォージュ産の樅材で作られるのだ。こうして、日常生活をいささかでも心地良くしようとするのである。それは、日常生活の心地良さに適合してしまった芸術だと言ってもいい。革新的であるという、芸術本来の機能は、そこでは犠牲にされているのである。キッチュとは、ひそやかな悪徳である、やさしく甘い悪徳である。だが、悪徳というものを全く持たずに生きていける人間がどこにいようか。キッチュの持つ圧倒的なエネルギーとその普遍性は、そこに起因しているのである。

言わば心地良さに適合してしまった芸術がキッチュであり、心地良いがゆえに人びとはそれを喜んで受け入れ、したがって商品としてあり得るのである。赤塚氏は次のような引用文に続いてこのように言っている。

ピンクやブルーの淡い色調、規則通りの和音、悩みやつれるヒロイン、あるいは父親らしい父親----人はこういったもの全ての中にある心地良さを感じる。そして、これらの心地良いもの全てに共通する要素が、キッチュの本質なのである。心地良さとは、キッチュの最も重要な情緒である。(モル)
この種のキッチュの例には、さらに、木陰に横たわる恋人たちや、煙突から煙がたなびく小さな家に暮らすしあわせな家族というイメージ、絵はがきを思い起こさせる自然の風景などもふくめることができるだろう。いずれにしても、これらのものにもとめられているのは「心地よさ」にほかならず、しかもそれは、誰もが手にすることができるもの、誰にとっても到達可能のものとみなされている。つまり、それは「約束された心地よさ」なのだ。さしあたってこの「約束された 心地よさ」をもとめる態度、それがキッチュという態度であると理解しておくことにしよう。

ここで赤塚氏は、モルの本からキッチュの現象を構成する五つの主要な要素を抜き出している。説明も含めて全文載せたいところだが、それは別の機会にするとして、ここは箇条書きにとどめる。

   1、成功が保証されていること。
2、自己肯定。
3、本質的な価値としての所有物。
4、心地良さ。
5、生活の中の儀礼性。

それぞれ簡単に説明すると、1の「成功が保証されている」というのは、その物なり行為なりが世間的に既に良い評価を得ているということと言ってもいいのではないかと思う(ちょっと自信なし)。突拍子もないことはしないし言わない。「中庸の徳」というやつである。2の自己肯定というのは、自己の生活や価値観にどっぷり浸かって、それに対して何の疑いも持たないというおめでたい態度のことである。3については、説明文を見る限り先程のステイタスの話らしい。どんな服を着てどんな車に乗り、家はどこでどのくらいの広さがあるのかということが、その持ち主の価値(?)を現すのだというアタマで揃えられる所有物。4の心地良さは先に見た。5の生活の中の儀礼性というのは、いわゆるマナーのことである。食事やお茶、接待をする際の行動様式というものは上流階級のものであったのだが、それをブルジョアジー(市民階級)が模倣し、次にプロレタリアート(労働者階級)が身につけたのだという。ははは、 これはつまりプロレタリアのくせにやたらブルジョアぶりたがるという上昇志向(?)の話と思われる。
赤塚氏は次に「心地良さ」を求める態度から「現実逃避」ということに話を移し、以下のようなカリネスクの言葉を示す。

キッチュは、(・・・)現代の日常生活の凡庸さと無意味からの脱出の幻想という----心理的により重要な----機能をもっている。どんな形態また組み合わせにおいても、キッチュとは緊張を緩和する快楽である。

これに関する具体的な例を示そうと思っても私もいまいちピンとこない文章ではあるが、その前に「キッチュはロマン主義のひとつの帰結となっている」とあることを考えるに、これは(モルの言う)キッチュ文学の話と通じる部分があるのではないかと思う。キッチュ文学における現実逃避というのは、つまりハーレクイン文庫の世界である。凡庸な毎日が、突然訪れた恋によってドラマチックなものに変わる。それまで生きているのか死んでいるのかさえわからなかったような女が、1人の男によって自分の魅力を知り、生の意味を知る、といった手合いのもの。いや、私は実際読んだことはないのだが、そのモルがキッチュ文学の例として取り上げている文章というのは、そんな感じなのである。かなり笑える。
続いて赤塚氏は、キッチュの美的側面としてカリネスクのいう「美的不適合」について説明する。もちろん話としては面白いのだが、ここでは取り上げない。美術批評、美術史という枠内でのキッチュについての部分と、「低級芸術」を愛する「キャンプ」という態度についての部分もすっとばす。
こうしてすっとばした先に何があるのかというと、ウラジミール・ナボコフの「ポーシュロスチ」批判である。先のカリネスクによると「ナボコフの考えるポー シュロスチは、キッチュのほぼ完璧な同意語である」ということで、赤塚氏はナボコフが『ニコライ・ゴーゴリ』の中で述べているこの「ポーシュロスチ」論を キッチュ論として読むことができると言う。
始めにナボコフは(これまで見てきたキッチュ同様)「ポーシュロスチ」が何であるのかの説明に、同義語を並べたりその広範囲な語のいくつかの側面を表す語を並べたりしていて、やはり定義づけに苦労しているように思われる。例え話もあるようで、赤塚氏はそのうちのいくつかを載せているが、私自身は「広告にあ らわれたポーシュロスチの例」というのが一番分りやすかろうと思う。「家庭に届いたばかりのラジオ・セット(あるいは車、冷蔵庫、銀食器、その他何でもいい)」が描かれた広告である。

ママは嬉しさに茫然として固く手を握りしめ、子どもたちがその周りにひしめき合い、坊やと犬は偶像の玉座たるテーブルの縁に届かんものと懸命に身を伸ばし、おばあさんすらも喜びに皺をほころばせ(おそらくは、その朝嫁ととり交わしたおそろしい口論のことも忘れて)どこか背景に顔を覗かせている。そしてやや離れて、得意満面の贈与者であるパパが、両の親指をチョッキの腋に突っこみ、両足を拡げ、眼を輝かせ、上機嫌にも勝ち誇ってい る。

爆笑である。さすが作家と言うべきか、情景が(というより広告に描かれている絵が)眼に浮かぶようだ。この手の広告には「人間の至福とは購入可能であり、この購入によって購買者の品位は幾分か高まるという考え」(ナボコフ)がほのめかされていると言う。赤塚氏はここで、先ほどの消費社会における「物語」のあこがれ、という話を思い出すよう促す。
ちなみにこういった広告を並べ立てた本がマーシャル・マクルーハン『機械の花嫁----産業社会のフォークロア』である。これも一度目を通しておくと、より話がわかりやすくなるというものだ(具体例を沢山手に入れるということは理解を早めると常に思う)。
さらにナボコフは文学のポーシュロスチを話題にしているという。

ナボコフは、たとえば新聞の文芸欄をにぎわせるベストセラー、「感動的で深遠で美しい」小説などのことを文学のポーシュロスチと呼んでいる。新聞を開くと、一面全体にとある小説の広告があって、その本を称賛する書評が並んでいる。あるものは「これはすべてを忘れて読み耽るたぐいの本である」といい、あるものは「最後のページをめくり終えた時、諸君は大いなる体験を経たあとのごとく、以前よりもややもの思いに沈んで日常の世界へ帰ってくる」といい、あるものはそれが「人間の魂の内部なるもっともひそやかな片隅を探るに巧みな大心理家の作品」だといっている。ナボコフの考えでは、「美しい」小説には「美しい」書評が付され、そうすることによって<poshlust>の輪は閉じるが、(・・・)「大衆」の好みに注意が払われている点を見落としてはいけない。(赤塚)

はははは、これはおそらく誰もが見たことのあるものだろう。懐かしのシドニィ・シェルダン『ゲームの達人』とか。先のマクルーハンの本にもこのような広告は取り上げられていたが、そこでは真の愛というものに辿り着くべくしてスワッピングする美人姉妹夫婦たちでさえ美しいものとなっている。ただの3流エロ小 説には眉をひそめるくせに、「真の愛の追求〜」などという何か崇高な目的があるかのような言い訳がついていると途端に飛びついてくるというわけだ。エロ小説ではなく「文学」なのだというポーズが必要なのである。そしてキッチュ人間にはそのポーズだけで足りるのであり、それが本当に「文学」なのかどうかとい うことには関心がないのである。
……つい悪ノリしてしまった。赤塚氏は次に、ナボコフが『ロシア文学講義』において「ポーシュロスチ」とほぼ同義の「俗物」を取り上げているという。読んでみると、これまた痛快である。

俗物(philistine)は成熟した大人であって、その関心の内容は物質的かつ常識的であり、その精神状態は彼または彼女の仲間や時代のありふれた思想と月並みな理想にかたちづくられている。(・・・)「ブルジョア」という言葉を、マルクスではなくフロベールの用例に従って私 は用いる。フロベールの意味での「ブルジョア」は一つの精神状態であって、財布の状態ではない。ブルジョアは気取った俗物であり、威厳ある下司である。

順応しよう、帰属しよう、参加しようという衝動にたえず駆り立てられている俗物は、二つの渇望のあいだで引き裂かれている。一つは、みんなのするようにしたい、何百万もの人びとがあの品物を褒め、この品物を使っているから、自分も同じものを褒めたり使ったりしたい、という渇望である。もう一つは排他的な場、何かの組織や、クラブ、ホテルなどの常連、あるいは豪華客船の社交場(白い制服を着た船長や、すばらしい食事)に所属し、一流会社の社長やヨーロッパ の伯爵が隣に座っているのを見て喜びたい、という渇望である。

フロベールとは『紋切型辞典』を書いた人である。ステレオタイプを笑い者にしていてなかなか面白い。上の「ブルジョア」の使い方も上手い。
順応しよう、帰属しよう〜という衝動はまさにキッチュの「中庸の徳」と合致する。後者の特権階級志向は、またしてもステイタスシンボルの話である。このように見てくると、俗物=キッチュ人間 Kitschmensch とも言えるようだ。
さて赤塚氏によればクンデラは、キッチュに対する考え方のみならず、あらゆる方面においてオーストリア生まれの作家ヘルマン=ブロッホの影響を強く受けているとのことである。したがって話はブロッホのキッチュ論へと移るわけだが、私の読んだ感じでは以下の2点のみを取り上げることとする(単に私の理解でき る部分があまりなかったから……)。

キッチュの本質は、倫理的カテゴリーを美的カテゴリーと混同することにある。キッチュは「善的に」仕事をしようとするのではなく、「美的に」仕事をしようとする。美的効果だけがキッチュにとっての問題なのである。(ブロッホ)

これは先ほど調子に乗って書いていた部分の「ポーズ」の話と思われる。しかしさすがにわかりやすい文章である。キッチュは美的効果のみを問題にする、か。 だからキッチュはうさん臭く、うすっぺらで、バカっぽいのだな。
もう一点は、キッチュとロマン主義の結びつきについての赤塚氏の文章である。

ブロッホによれば、ロマン主義の要求は、美を個々の芸術作品の目標に設定しようとする美的要求であり、そのことによってロマン主義の体系は有限体系になってしまう。あらゆるキッチュに不可欠の予備条件となっているこのような有限化は、世俗的なものを永遠のものへと高めるというロマン主義の特殊な構造からもたらされてもいる、とブロッホはいう。これはつまり、ロマン主義という「精神的態度」には、キッチュを生じさせる倫理的カテゴリーと美的カテゴリーの混同が認められるということを意味している。
ブロッホはまたキッチュとロマン主義の両方に、過去とのつながりをもとめようとする性格があるという点も指摘している。ロマン主義とは「古い価値観の保守的固定化」(ブロッホ)のことであって、「キッチュに特有な、歴史的なものへの逆戻り」(ブロッホ)はそれに対応している。既存の価値を保持しようと望むロマン主義の態度に見て取れるのは、「個人的な感情充足」を目的とする、「歴史的ー牧歌的なもの」への憧憬、「美しい」歴史世界への憧憬であり、この憧憬をもっと簡単に満足させてくれるのがキッチュにほかならない。ロマン主義にあって「現実から逃避しながら探し求めているものは明らかに、固定した慣習の世界であり、一切が善で正しかったいわば先祖の世界である。一言で言うなら、過去との直接的な関連が探し求められているのであって、それは、キッチュが技法上たえず直接の範例を模写しているのとまったく同じことである」(ブロッホ)。

前半部の「有限化」については正直「?」であるが、後半の「過去とのつながり」云々の部分はふむふむという感じである。というか、まさに「だよねーーーー」。ツボである。ちなみに「一切が善で正しかったいわば先祖の世界」というのは、神のいた世界のことである。クンデラの言葉を借りれば「神が宇宙とその価値の秩序を支配し、善と悪を区別し、ひとつひとつの事物にひとつの意味をあたえていた場所」である。しかし近代以降神はおらず、「神の唯一の<真理>は、おびただしい数の相対的真理に解体されて、人間たちはそれら相対的真理を分かちあうことになりました」。これはその通りだと思う。それなのにロマン主義やキッチュは、バカバカしいほど善や美のみをひけらかしやがる、というわけだ。更に言えばそれすらただのポーズなのである。
この章のまとめとして最後に赤塚氏は、フランスの批評家イヴ・エルサンの文章を載せ、重ねて、通常の用法から取り去られたキッチュの哲学的(ブロッホ的) 語義というものを強調している。



 

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