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■ 日本の「安心」はなぜ、消えたのか 社会心理学から見た現代日本の問題点     

 国力とは何か 経済ナショナリズムの理論と政策               

 <わたし>という幻想、<わたし>という呪縛 精神病理学的政治学序説    

 健康不安の社会学[改訂版] 健康社会のパラドックス            

■ エイジレス革命 永遠の若さを生きる                    

■ 文明崩壊 滅亡と存続の命運を分けるもの                  

■ 働く女性のための統合的交渉術 そのひとことが言えたら…          

 伽藍とバザール オープンソース・ソフトLinuxマニフェスト

 未来社会への変革 未来の共同体がもつ可能性                

 友だちを自殺させないためにきみにできること                

■ 人を信じるということ                           

■ バカの壁                                 

■ タブーの事典 それはなぜ【悪い】のか?【いけない】のか?         

 続「甘え」の構造                             

 金持ち父さんのキャッシュフロー・クワドラント               

 アルジャーノンに花束を                          

■ 社会的ジレンマのしくみ 「自分1人ぐらいの心理」の招くもの             

■ 宮廷風恋愛の技術                             

■ 神コンプレックス 人間全能信仰の誕生と危機

 ホロン革命                                

 他者の記号学 アメリカ大陸の征服                     

 蜘蛛女のキス                               

■ イデオロギーとしての英会話                        

■ アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない 恥辱のあまり崩れ落ちたのだ  

■ 内なる辺境                                

 日曜日には僕は行かない                          

 大学受験 納得(ナットク!)できる英文法                 

 カムイ伝                                 

■ 存在の耐えられない軽さ                          

■ 世界の宗教と経典・総解説                         

■ ベロニカは死ぬことにした                         

 ミラン・クンデラと小説                          

 ナボコフのドン・キホーテ講義                       

 カリブの龍巻 G・ガルシア=マルケスの研究読本              

 



「人を信じるということ」
島田裕巳
晶文社 2004
2005/09/18



この本、タイトルで随分損してんじゃないかと思う(苦笑)。いや、損をしているのは我々か??ちょっとねー、面白かったんだよ。
「人を信じるということ」と言っておきながら、序章でまず述べられているのは「日本人にとっての宗教とは」。意外な切り口に瞠目しながらも、私は以下の文を読んで「借りよう」と決めたのだった。

日本人は、自分たちは無宗教であると考えています。宗教を信じる必要があるのかどうかに、かなり疑問を感じています。そして、宗教を信じる人たちは、こころの弱い人たちに限られるのだとさえ考えています。無宗教であると考えるということは、自分の人生にとって、宗教というものが重要な意味をもっていないと認識していることを意味します。
これまでなら、信仰をもっていないということにコンプレックスをいだく日本人も少なくありませんでした。日本人が社会のあるべきモデルとして考えてきた欧米の社会では、人々は皆信仰をもっています。信仰がなければ、確固とした思想を生み出すこともできないのではないか。日本人は、そう考え、信仰をもたない自分たちを恥じてきました。
しかし、宗教がテロリズムに結びつく状況が生み出されてくることで、コンプレックスをいだく必要は必ずしもないのではないかという思いも生まれてきています。宗教は、排他的な性格をもつために、どうしても世界に激しい対立を生むことになりやすい。世界に平和をもたらすためには、むしろ信仰は障害になっているのではないか。日本人が無宗教であることに、積極的な意味があるのかもしれない。そうした認識が生まれることで、日本人は宗教からますます距離をおくようになってきたと言えるでしょう。(p.13)

(こんな感じの平易な文章がまた好もしい(笑))例によって引用が長くなってしまったが、上にあることはまったくもって私の感じていたことだったから、ついね。「では、どうしたらいいのでしょうか。私たち日本人が宗教の問題を、自分の問題として考えるためのきっかけは、どこに求められるべきなのでしょうか」(p.16)。

信じるということには、大きく分けて二つの意味があります。一つには、信仰するとか、帰依するといった意味での信じるということがあります。その一方で、信じるということには、信頼する、信用するという別の意味があります。(p.16)

私たちが、日本人の宗教について考えようとする際に、信仰という意味で信じることを問題にしているかぎり、宗教は大多数の人には必ずしも関係のない特別なものとみなされてしまいます。しかし、信頼という意味での信じるということであるならば、それは、日本人全体にかかわってくるはずです。日本人は、社会のなかで信仰が薄れていったとしても、その点について危機感をいだいたりはしません。しかし、信頼が崩れていくことには、強い危機感をいだくのです。 (p.17)

なるほどねーーーー。そっかそっか、言われてみれば。なんで気がつかなかったのかなって感じ(笑)。(ちなみに著者は、初詣やお宮参り等々の宗教行為を 「習俗に過ぎません」と説明する。「習俗はあくまで習俗であって、信仰として自覚されているわけではありません」(p.16)。確かにここをきっちり分けないと話がすすまない。)
「信頼や信用と言ったとき、その対象となるのは、同じ社会に生きている人間、他者にほかなりません」(p.17)。とはいえ、一般に人を信じるというのはそうそう容易でないことのほうが多い。

信仰や帰依としての人を信じるということが浮上してくるのは、おそらくそうした局面においてです。人を信じることが難しいと考えたとき、私たちは、自分を支えてくれるよりしっかりとした基盤を求めようとします。つまり、はっきりとした形をとった宗教が求められるのです。(p.18)

よって著者が言うにこの二つは、密接な関係をもっている。また反対に、根本的に違う部分もあるだろうとのこと。それを、この本でみていきますよーというわけだ。「そこまで考察を深めていったとき、(略)現代社会における宗教問題について、私たち日本人がそれをどのように考えていけばいいのか、その見通しを得ることができるのではないでしょうか。宗教の本質がどこにあるのか。それは、宗教そのものではなく、日本人にとっての宗教の本質ということかもしれません」(p.19)。



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「バカの壁」
養老孟司
新潮社 2003
2005/07/18



この本、読めません(泣)。20ページ、48ページ、62ページにしてまたも挫折。「僕、わりとこの人の本好きなんだよね」と言って貸してくれた人に、 ちょっと失礼とは思いながらもメールを出してしまったよ。「私に言わせればこの書き方、年寄りの愚痴となにが違うのかって感じです」。
相手は幸いにもまぁ出来た人なので、私のこの反応を面白いと思ってくれたらしく、「もっと意見を聞かせてくれ」つーようなメールが返ってきたんだが、もっと何かしらを書くとなると、もっと読み進めなければならない。そう思ってまた読みはじめたのだが、内容というよりこの方のものの言い方が気になってなかな かはかどらないのである。
例えば以下の文章。「個性」を発揮せよという一部の向きに反論する部分。

学問の世界でも、やたらに個性個性と言うわりには、論文を書く場合には、必ず英語で書けと言われる。
学術論文には「材料と方法」という欄があります。論文を書くにあたっては、その言語も、「方法」の基礎のはず。ところが、学者の世界では大概、英語を共通語として、それを使うように求められる。一体どこが個性なのでしょうか。(p.45)

え、いや、あの。えぇ?!って感じ(苦笑)。なんの話をしているの?もしかして言いがかりですか?この場合の「個性」って、内容についてじゃあ……。
更に次の文章。「マニュアル人間」について。

要は、「私は、個性なんかを主張するつもりはございませんが、マニュアルさえいただければ、それに応じて何でもやって見せます」という人種。これは一見、謙虚に見えて、実は随分傲岸不遜な態度なのです。
「自分は本当は他人と違うのですが、あなたがマニュアル=一般的なルールをくれれば、いかなるものであろうとも、それを私はこなしてみせましょう」という態度なのですから。(p.46)

ちーがうだろうぉぉぉ???なんなんだ、これは。しかも「私の目にはそう映る」とかいうんじゃなくて、言い切ってるしね!!怖いよ、この読み手不在か?と思われるほどの鈍感さは。しかもこの後はこう続く。

私自身は、マニュアル通りになんかとても出来ないし、読む気もしない。最初からそんな気は無い。しかし、具体的に仕事をやれば、どういう手順がいいのかなんてことは、わかってくるものなのです。(p.47)

まさにこういった物言いだよ、あたしが「年寄りの愚痴」と言ったのは。ある事柄について扱き下ろし、自分はそこから遥か彼方、とおおおおいところにいるんだもんねーーー、バカはお前ら(若者、お上、現代人その他もろもろ)で、自分はそうじゃねぇえんだよ!……って、要するにそのことを篤と言いたいのね、とこちらに思わせる箇所がぽこぽこ出てくる。それが続くと目も当てられないし、「それって思い違いじゃあ」とか、「それって意図的な意味の取り違い??」てな 文章を積み上げられて結論めいたことを言われても、ちょっと困るーーーー。
「本来……だ」という、繊細さのカケラもない言い切り。「本来、こんなことはだれだって気がつくはずなのです」(p.68)、「考えてみたら当たり前のこと、なのです」(p.44)、「当たり前の話です」(p.70)(→それが分からんあんたはオカシイ)といった、上から人を見下すような物の言い方。この 人、なんでこの本書いたのかな。自分にとって「当たり前」であることが当たり前でないから「オカシイ」と言ってるに過ぎないように、どーーーしてもあたしには思えてならない。とてもまともな物言いではない。読み手というか他者を信頼しているようなところがまったく見られないしね。ていうか、自分が上にいたいからか、明らかに他者を見誤っている。

もともと問題にはさまざまな解答があり得るのです。そうした複数の解を認める社会が私が考える住みよい社会です。でも多くの人は、反対に考えているようですね。ほとんどの人の意見が一致している社会がいい社会だ、と。
若い人もそうかもしれない。なぜなら試験に正解のない問題を出したりすると、怒るからです。人生でぶつかる問題にそもそも正解なんてない。とりあえずの答えがあるだけです。私はそう思っています。(p.5)

上の一文、二文までは「ふんふん」って感じよ。次の文章で「ん?」っと思って、その次の文章で「なんでなんで??」。そしたら「若い人」を例にあげて「試験」ですって!!!試験と人生は一緒かよ。「なぜなら試験に正解のない問題を出したりすると、怒るからです」って、つながらねーーーよ!そして結びは殊勝な感じで「私はそう思っています」。たぶんねー、みんな、つーか、ほとんどの人そう思ってんじゃないかなぁ。「私」だけが特別そう思ってるわけじゃないと思うんだけどぉ(泣)。カッコ悪すぎ。
もう、読めない。でも、あんだけ話題になった本だし、読まないと(号泣)。言ってることは多分あたしとそう変わらないんだろうし。あー……、こういうの、アクが強いって言うんかな。久しぶりにひどいものを見たよ。


(多分この人の外部に対するアクションがこんなだから、この人に返ってくる周囲の反応もそりゃひどいものなんだろうね。かわいそうに。でも私は『唯脳論』 を読んだはずで、そのときはこんな人じゃなかったはずなんだけど。なにかあったのかねー。←悪口書いてクールダウンした人)


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「タブーの事典 それはなぜ【悪い】のか?【いけない】のか?」
フィリップ・ト−ディ
原書房 1998(1997)
2005/07/18



素晴らしいネタ本である(爆)。それぞれのタブーがいちいち示唆に富む。事典ということで、かいつまんで読めるのもいい。そういうわけで軽ぅく御紹介。たぶんオチなし(笑)。


…とはいえネタ本ということで、今回は真面目にそのタブーを取り上げようって気はなくてね(それはそれで興味深いんだけど)、「神コンプレックス」をやってるところなので、まずは以下の文章を読んでいただきたい。タブーの項目は「アウシュビッツ Auschwitz」。

イアン・ブルマは、旧西ドイツでは当局だけでなく一般市民も、ナチ時代の残虐行為に対して自分たちの罪を認める態度をもっているのに対し、日本や、(略)東ドイツ(略)と呼ばれていた国の状況は対照的だと見ている。旧東ドイツと日本の両国においては、その理由は異なっていたが、第二次世界大戦以前や戦中に起きたことについて話すのは、西洋民主主義社会よりはるかに長い間タブーとされてきた。こうした状況は、ある種のタブーを保持し続けているのを見れば、その社会の政治的価値観や過去に対する態度がはっきりと分かるということの例証になる。(p.188)

最後の部分それ自体は「ナルホド」とは思うが、じゃあ具体的に日本についてを考えるとピンとこない。「戦中に起きたことについて話す」ことがタブーだったのではなくて、(著者も別のところで指摘していることだが)天皇の戦争責任を問うことがタブーだったんじゃないのか?かつては違ったのだろうか??とはいえ、旧西ドイツと対象的に「自分たちの罪を認める態度」を我々がもっていないというのは当たっている。天皇が、軍部がといった話はあっても、「自分たちが」という発想が、もしかしたらそもそもないんじゃないか?「(日本人は)非常に個が確立してしまって」いるから(←またか)。10年くらい前かな、知り合いが、もしアジアに旅行した際に土地の人に戦争責任を問われても「絶対に謝らねぇ」と言ったことを思い出す。「だって俺がやったんじゃねぇもん」。バカ正直というか、文脈読めば「謝っとけ」とは思うんだろうけど、本当のところは多かれ少なかれそういう違和感を誰もが持ってしまうんじゃないだろうか。そう考えると、日本人として担うといった形の「日本人の歴史」 つーものが、そういやないように思われる。良い悪いは別として。

西ドイツの国民は一九四五年の戦争終結後ただちに、自分たちはなぜあのようなことをしたのかを探ろうとすることによって、自分たちの罪を論議することに対するタブーを破ったが、そういう気持ちに人々を駆り立てるものが、日本の文化には皆無だったのだ。(p.189)

皆無ねぇ(苦笑)。そこまで言われると反射的に「そうかな」と思ってしまうが、それじゃあと思って考えてみても確かになにも思いつかない。で、そう言われる所以は以下のようなことなのかもしれない。

つまり、本来、人間にはわからない現実のディテールを完全に把握している存在が、世界中でひとりだけいる。それが「神」である。この前提があるからこそ、正しい答えも存在しているという前提が出来る。それゆえに、彼ら[一神教徒]は科学にしても他の何の分野にしても、正しい答えというものを徹底的に追求できるのです。唯一絶対的な存在があってこそ「正解」は存在する、ということなのです。
ところが、私たち日本人の住むのは本来、八百万の神の世界です。ここには、本質的に真実は何か、事実は何か、と追求する癖が無い。それは当然のことで、「絶対的真実」が存在していないのですから。これは、一神教の世界と自然宗教の世界、すなわち世界の大多数である欧米やイスラム社会と日本との、大きな違いです。(『バカの壁』、養老孟司、新潮社、2003,p.20)


さて、この事典には「対立 Confrontation」という項目もある。「対立?」と思ったら日本の話だったよ(笑)。上とも関係してくるのでちょっと見てみよう。

一九九五年六月十四日付の「ガーディアン」紙の報道によれば、宮本政於(官僚組織を批判した『お役所の掟』の著者) はこう述べたという。「日本では、対立はタブーです。対立を避けたいという願望は、日本の社会でもっとも重要な要素なのです」一九九五年の『ジャパンクオータリー』で深津真澄(朝日新聞論説委員)が、日本の外交政策に関する昭和天皇の責任について論議することは「タブー」だと言及していることと考えあわせると、これこそ、一九三七年から一九四五年の間に日本兵が犯した残虐行為を謝罪することが、日本にとって難しいことはなぜかを説明するのに役立つ言葉だ。(p.281)

やっぱりピンとこない(苦笑)。対立がタブー+天皇の責任を論議することがタブー=日本が謝罪できない理由??
文章は次のように続く。「礼儀正しく、お互い毎日のように頭を下げている国民が、国家として自分たちの行為を謝罪するとなると躊躇するということは、タブーの特性についてのひとつのヒントになる」(p.281)。ここでいうタブーの特性とは、おそらく「タブーがある集団を隣人や敵と区別する差異を示すしるしとなる」(序文、XV)というやつである。タブーを創り、守ることによって、「自分たちが彼らよりいかに優秀であるかを誇示する」(序文、XV)というわけだ。つまりこの場合、タブーを破って謝罪をしたら、「自分たちが彼らよりいかに優秀であるか」なんていうどころではない。ゆえにまたこうも言われるのである。「タブーは権力と関係する」(序文、XV)。

今後、米英が後者の方向[「国連型」国際協調主義]に世界を誘導していくのだとすれば、困る国の一つは日本である。日本の上層部は戦後一貫して、アメリカを中心とした冷戦型の協調主義体制が持続することを望んできた。小泉さんの靖国神社訪問も、中国・韓国との対立も、日米英は中露と対立する、という冷戦型の枠組みがあればこそ、戦略として生きてくる。
イギリスが多極主義的な世界体制を誘導し、アメリカもそれを黙認し、米英連合、独仏連合、中露印連合、という大国諸連合が世界の枠組みになると、日本は入るところがなくなり、孤立してしまう。
中国としては、露印との連合とは別に、日本・韓国などと「東アジア共同体」を作ることを目指し、日本との戦略対話を進めたがっていた時期もあったが、中国側の条件だった小泉首相の靖国参拝停止が拒否されたため、今年5月の呉儀中国副首相の小泉会談キャンセル事件を機に、動きは止まっている。
今後、英米が、中露印のユーラシア連合の強大化を黙認する姿勢を続けた場合、日本はどこかの時点で、冷戦型の国際協調体制の再来を待つ姿勢を止めざるを得なくなる。その場合、日本は孤立するわけにはいかないので、政権交代などを通じて方向転換して、中国や韓国との東アジア共同体を強化していかざるを得なくなるかもしれない。
日本では、冷戦型世界の枠組み持続を前提とした小泉政権の外交政策(靖国参拝など)を支援するためなのか、マスコミが総出で反中国・反韓国の傾向を煽る報道を続けており、多くの日本人の思考がそれに影響されている。だが、日本の外交政策の大前提となっている世界の枠組み自体が変化したことが確認され、新事態に対応しなければならなくなったら、このプロパガンダ戦略は静かに消え、別の逆方向のプロパガンダ戦略にすり替わるのかもしれない。 (田中宇、「国際協調派のための911」、『田中宇の国際ニュース解説』、2005年7月8日配信)

タブーを創出するのは権力だったりもするつー話だが、上の記事を見るに「国家として謝罪しない」ということは、単純に、謝罪することが「国家として」都合悪いんでしょ、というのはすっとくる話である。逆に旧西ドイツにおいてはそうすることが国益に適うと判断されたとも考えられる。いや、単なる思いつきだけど。



政治的な文脈におけるタブーは分かりやすいが、最初に書いたような文化的なものについては、相変わらず分からないままである。「対立がタブー+天皇の責任を論議することがタブー=日本が謝罪できない理由」……。なんだろう、梁石日の小説に出てくるんだが、「俺は天ちゃんが大好きなんだ。だから天ちゃんを悪く言う奴は、誰であろうと俺がぶっ殺す」とかいう酔っ払い(だったかな)とは、確かに対立したくないよねぇ。ていうか、もしかして対立がタブーってすごいシャレにならん状況なんじゃないか?この酔っ払いみたいに個人の「好き嫌い」から離れた視点を持たない連中が多いから、血を見ないように対立をタブー視している、してきた、とかね。(「タブーとは、外界からの脅威のみならず内側からの崩壊に対して、社会が一丸となるための方策であると見ることができる」 (p.301)。加えて「多数のタブーを遵守する社会の下位集団構成員は、警察に面倒をかけることがまれだという傾向がある」(p.302)ってね(苦笑)。)
「ああ、ノーマン。日本はいいよ、日本は。上品で穏やかで。人も国もまるで眠る魚だ。目は開いているが、寝ているんだよ、あれは……」(高村薫、『リヴィエラを撃て』、講談社)。しかしこれ、ある意味ではいいことなのかもしれない。今回の英テロに関するコメントをあちこちで見るにそう思うね。対立は、あったとしてもそこはまぁまぁ、てな感じでやる技術というのかな。とにかく「我らこそが絶対に正しい」なんてはしたない真似はお止めなさい、と思う(泣)。
えっと、何の話だったかな(爆)。もう収拾つかないー。あ、あとこれだけひっぱってこようと思ってたんだ。前にも引用したし、天皇制の話ということでちょい文脈が違うんだが、こういう話をしているのって他では見たことがないので参考までに。

それには日本の支配者の長期にわたる緻密な努力があったことを忘れるべきではない。天皇に直属し、人民の統制をうけない軍部の存在、軍人勅諭による思想教育、大正以後とみに強化された学校における天皇崇拝思想の注入、在郷軍人会、青年団、処女会などのネットワークの組織的行事をつうじて、大小の社会集団を現実に支配する「小さな天皇制」の保守力をつよめ、その集中的表現としての天皇崇拝思想が支配するようになった。この歴史的過程の分析は、ほとんどなされていない。天皇制の威力が軍隊と警察など暴力装置だけによって維持されているとする浅薄な見解が有力で、精神的ないしイデオロギー的な同化と同意の装置を軽視したことが反天皇制闘争を観念のなかで空転させた最大の原因であることに、ながいあいだわれわれは気づかなかっ た。(石堂清倫、『異端の視点----変革と人間と』、勁草書房、1987,p.251)


ちなみにこの本の著者は「イギリス在住」とのことである。にしても日本についての記述が多いのには驚かされる。「アイヌ族は、性交中の女性がほんの少しでも動いたら、その夫は「不運な死に方をする」と信じていたというが、これは、ヴィクトリア朝時代の夫たちが情熱をあらわにする妻に、「淑女は動かないものだ」といって叱ったという伝説とそっくりである」(p.149)とか、「「ジャパニーズ・ブック・ニュース」(一九九五年冬)の十二号で猪瀬直樹は、日本では第二次世界大戦以来、軍隊に関することはすべてタブーとする傾向が強いと書いている。この影響は、一九九五年一月十七日の阪神淡路大震災の際、自衛隊の援助を要請するのがかなり遅れたことにも見られる」(p.134)とか。ね、面白いでしょ??
いつか他のタブー(から想起されたこと)についても書くかもしれない。「死」「病気」あたりで。


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「続「甘え」の構造」
土居健郎
弘文堂 2001
2005/01/25



昨日のニュース記事なんだが、個人的にちょっとびっくりしてしまった。

Yahoo!ムービー - ニュース <心の問題「共依存」に問い合わせ殺到>

かなり昔「共依存」ついて書いたことがあってね、まさかこの語がこんな風に使われるようになるとは思わなかったよ。説明はまるでなってないが(苦笑)。



ところで私はなぜこの本を借りたのだろう。それは、『神コンプレック ス』が借りられていたからなんだよ〜〜〜!!信じられない、一体あんな本を誰が何故?!もちろん少しは嬉しいものの、やはり困る。買えばいいじゃないかと言われそうだが、買うと(安心して)見向きもしなくなるので(笑)、やはり困るのである。早く返してください>借りてる人。
でもまあお蔭でこの本を手に取ることができた。この本は「続」なわけだが、『「甘え」の構造』自体は1971年に出版され、後に8カ国語に訳されたシロモノだと言う。ちなみに著者は1920年生まれの精神科医。年相応の文体というか話運びに苦笑いしてしまうところもあって、割と楽しめる。
しかし真面目な話、これは読んで正解だった。もったいぶらずに言ってしまうと、著者が言うには「甘え」という語に相当する外国語つーのはないんだとか。要するに次のような次第。

第二の例は、ふつうハンスの症例と言われるが、五歳の男の子についてのフロイドの詳しい記録の中に出て来る一節である(『フロイト著作集』第五巻、人文書院、一八五頁)。(略)その一節とは、ハンスがある朝泣きながら起きて来て、どうして泣くのと聞かれて、「寝ているとママがいなくなって、甘えるママがいないと思ったの」というところである。この「甘える」が英語ではcoax withであるが、この語の本来の意味は相手にうまく取り入って何かしてもらうということである。この記録の原文はドイツ語であるが、そこではシュマイヒェルン(schmeicheln)となっていて、この語も同じように相手をいい気持にさせることを意味する。このようなわけでこの場合も、(略)語義の上からは「甘える」と違うが、しかし実際には「甘える」現象をさしていることに間違いはない。(略)相手をよい気持にさせることが実は自身の満足に通じるところが味噌なのだが、英語やドイツ語ではその点が表現できない。したがってこの場合、「甘えるママがいない」と訳したのはそれでよかったのだが、ただもし日本の子供だったら単に「ママがいなかったから」と言うだけで終ったであろう。自分から「甘える」という語を使ったとは思われない。その代わりに周囲が 「ああ、この子は甘えたいんだな」と理解しただろうと想像されるのである。(p.72)

さてこれがどう『神コンプレックス』につながってくるのかというと、以下の部分を見ていただきたい。

ところで精神分析的文献に関する限り、これ[甘え]に相当する概念は見出されない。そしてそれに代わるものとしてはナルシシズム(自己愛)と全能の概念があるのみである。(p.169)

なるほどねー。だから(この著者が言うところの)「「甘やかし」と「甘ったれ」」を「共依存」なんて風に言うのだな。そして、だから『神コンプレックス』 が、時にどうにもまわりくどい文章の連続であってしまうのだな(苦笑)。

<メモ程度に引用>
「甘やかし」と「甘ったれ」の場合はそうすることが迎合であるという自覚がふつうはない。甘やかすのはもっぱら相手を喜ばせるためだと思っているし、甘ったれるのもそうすることが相手の意を迎えることだと思っている。それぞれそうすることが自分にとって好都合であるという意識は乏しい。したがってこれは無意識の迎合と言ってよいかもしれない。(p.134)


とはいえ『神コンプレックス』で見たように、ナルシシズムも全能も言わば屈折した「甘え」であって、健全な「甘え」ではない。ゆえに著者の行き着くところは次のようになる。

問題は西洋近代における人間固有の自律性の強調がキリスト教信仰の衰退と反比例して起きたと考えられる点である。すなわち全知全能の神を信ずることはもはやできないので、人間理性とそれに基づく自立を信ずるというわけである。そしてそれとともに人間性に具わる幼児性がきびしく監視され、その結果精神を病む者の数が急増して現代における精神医学全盛の時代が到来したのである。(p.218)

おぉ、シンプルにまとまっている。助かるよー(爆)。
で、どうするか。著者は「現代人の不幸は聖とするものがなくなっていることではないか」(p.237)と指摘する。「人間がそれこそ人間らしく生きるために、人間を超える何ものかを尊ぶことをいま一度学ばねばならぬのではなかろうか」(p.238)。そこで著者が期待を寄せるのは、「日本人の素朴な宗教 心」(p.230)というやつである。急にそんなことを言われても面喰らうが、つまりは以下のようなことである。

それは例えば、子供の誕生をめぐってはお宮参りをするが、結婚式は教会でやりたがり、死ぬときは寺で葬式をやるという一般の日本人がよくやる慣習の中に見られる傾向をさしている。これは宗教学の方で言うシンクレティズム(混交主義)に相当すると言うことができるが、そ れにしても各宗教をたくみに使いわけるところが見事ではないか。(略)日本人の間にはそれぞれに異なる宗教について、山頂に到る道がいくつもあるのと結局は同じことだという考え方がある。(略)それは明らかに普遍的なものを志向している。具体的に言えば、それは自分より優れていると見られるものに対しては頭を下げることを厭わない日本人の素直さを現わしているのである。(p.230)

単なる祭好きでは?と思わないでもないが、まぁ悪い話でもない。この大らかさというか無邪気さも「甘え」なのかもしれない。
宗教と言われるとどうしても引いてしまうというなら、単純な話、自分よりできる人に対して、相手を妬むことも自分を卑下することもなく「すごいなぁ」と言えるかどうか、つーことになるんじゃないのかな。違うかも(笑)。そこらへんと「甘え」ってのがどう結びつくのかということについては、またページを改めて書こうと思う。



よって続き; 01 02 03

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