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「日曜日には僕は行かない」
森茉莉
新潮文庫「恋人たちの森」収録 1961
2002/03/08



そういえば私は小説をあまり読まない。恋愛小説となるとなおさらだ。そんな私がなぜこれを手にとったかというと、森茉莉という作家の名をロリコン、あるいはショタコン、やおい、ボーイズ・ラブという文脈でよく目にしたからだった(最近思うところがあってちょっとそこらへん漁ってました)。
森の描く少女あるいは少年は、そういう趣味の人にとってはたまらないものらしい。褒め言葉ばかりを見るので「どんなもんかいな」と思って読んでみることにしたのだった。
図書館に行くと、この人の本はこれと親父の森鴎外の話を書いたものしかなかった。この『恋人たちの森』には表題作のほかに3編が入っており、それぞれ 『ボッチチェリの扉』『枯葉の寝床』『日曜日には僕は行かない』。後ろの2編はどこかのサイトで話題にされていたので、私はまず『日曜日には〜』を先に読むことにした。

とってもつらいです。読み続けるのが。もしかしたら私には恋愛小説を読む力というのがないのではないだろうか。話は名のある作家37歳とその愛弟子22歳の男同士の恋愛。22歳については登場した途端いかにそいつが美しいかの説明が1ページくらい続くのだが、相手の作家についてはそれと比べるとあまりにおざなりで、こちらとしては曖昧なイメージしか持ちえない。途中で作家が37歳だと言われて「なに?!」という感じでイメージ修正を余儀なくされる。内容も 二人の恋愛についてしか書かれておらず(いや、そもそも恋愛小説というものはそういうものなのか??)、要するにこの人は自分の書きたいことだけを書いているという印象だった。別にそれが悪いとは思わないが、「でもそれじゃあ同人レベル?」と思ってしまう。
この人の色彩感覚はしかし、「へぇ」と思わされるところがある。服装の描写が妙に多いからというのもあるが、話の随所にはいろいろな色がちりばめられている。22歳の名前からして「半朱(ハンス)」だし。「灰色のチョオク・ストライプの夏服に紅紫の艶のない紋織りのネクタイ」「象牙色の襟のついたスウェー タアに灰色のジインパンツ」「深い栗色の、ラグラン袖の胴の弛いオーヴァー」「濃紺の綿ギャバのレエンコオト」などなど(なんだろう、綿ギャバって)。秀 逸なのは次のシーンかな。そういう意味ではこの人の書く小説は美しいのかもしれない。

本郷通りは薄暗くなっていて、乾いた歩道が白く、二人の行く手に次第に狭まり、帯のように続いている。達吉の顔は幾らか青ざめて いる。バスの停留所の標識の黄色、埃を被った銀杏の緑、煉瓦の紅、濃灰色の影になって動く人々、尾を垂れて二人の脇を行く赤犬、何もかもが半朱の眼にも、 達吉の眼にも、先刻とは変わったもののように、映っている。

あと意外にもかわいらしいと思ったのは嫉妬の描写。円地文子の「煮られている苦しさ」のような、おキレイな言い方であるがゆえにシャレにならず、従って迫力を感じさせるようなものではなくて、例えば半朱と婚約者が一緒に銀座を歩いているところを目撃した達吉の場合、「体が燃え上がるようになって来て、捉まえて厭という程とっちめて遣りたくなる」のだった。「半朱にやきを入れ」るのだ。わははは。こっちのほうが私なんかだと感覚的によくわかる。
他の3つの作品もちゃんと読んだら私の森に対する印象も変わってくるのだろうが、やっぱり私には恋愛小説は辛すぎる。ということで、今回はここまでとしよ う。
話は変わるが、そのやおい、ボーイズ・ラブ周辺を調べていて面白いなぁと思ったことは、「同人連中が皆同じような物語を書いてしまうのは、オリジナリティがないという話ではなくて、書きたいことが皆同じということなのだ」「コミケ文化の中心は女子中高生である」という2つの話から、「その手の物語の大半が告白をされて(されながらエッチまでされて)ハッピーエンド〜というものであってしまう理由とは、女子中高生の取りあえずの問題/関心/憧れが「好きな人に告白されて身悶えしたい」ということに尽きるからなのだろう」ということ。なるほど、確かに同人なんかやってるやつらには切羽詰まった問題であろうと妙に合点がいったのだった。だってやっぱあいつら空気が特殊すぎー。


<追記>
風呂に入りながらちょっとだけ『恋人たちの森』を読みましたけどねぇ。私にはどうしてもダメですねぇ。何が面白いのか全然わかりません。単に男同士の恋愛を書きたいが故にそれに沿うようなキャラ設定をしているとしか思えませんもん。キャラはシーンを構成する駒に過ぎず、書き手のキャラに対する愛情というか思い入れが感じられない。そのせいなのかキャラは薄ぺらで魅力がない。





 


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