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「存在の耐えられない軽さ」
ミラン・クンデラ 集英社 1993
2001/08/09



これは、つっこみどころ満載の、めちゃめちゃ面白い本である。何故私は今までこれを読もうと思わなかったのだろうか。非常に悔やまれる。
確かに私はこの本の存在を知っていた。しかし知ったのはこの本が話題になった80年代であり、しかも運の悪いことに『POPEYE』もしくは『Hot-Dog PRESS』上でであった。あの頃はまぁ、簡単に言えば村上春樹の『ノルウェイの森』なんかがきゃあきゃあ言われていた時代である。ちょっと小難しい本を読んで女の子の前で何かしらわかった風なことを囁くことがスタイルとなっていた(らしい)。なのでこのクンデラの本も「それ用の本の一つ」のように私には思えたし、作品の一言紹介文を見ても男と女がどうだということにのみ終止しているようだったので、流行の本だということでタイトルは覚えても、読んでみようなどとはまるで思わなかったのである。ちなみにその(あまりにひどい)作品紹介文の一片を、この借りてきた本の背表紙見返し部に見たので書き出してみると、こんな感じである。

ほんとうに重さは恐ろしく、軽さはすばらしいことなのか?
男と女の、かぎりない転落と、飛翔。愛のめまい、エロティシズム・・・・
冷戦下の中央ヨーロッパの悲劇的政治状況の下で、
存在の耐えられない軽さを、かつてない美しさで描く、
クンデラの哲学的恋愛小説。

ふ。何が言いたいのかまるでわからないのはあの頃のままである。そしてこの本を読み、評価している者なら「全然違うだろっ」と言わずにはおれないシロモノである。一言だけ断っておくと、この作品はこんな紹介にあるようなワケワカラナサは全然ないし、悲劇的政治状況を真面目に悲劇として描くほど稚拙でもないし、別に美しくもないねぇ。「キッチュ批判」がテーマでもあるこの本を、しっかりキッチュに宣伝している集英社よ。ほんとにこれ読んだのか??

主要な登場人物は、男2人、女2人、そして書き手の「私」である。作中の物語とは別個に書き手が「私」として首を突っ込んでくるという形式はもはや珍しいものではないが、クンデラの場合はちょっと尋常ではない。というのも、クンデラにとって物語世界とは自己の考えを深めるための「実験の場」であり、したがって書き手が直接さまざまなテーマに取り組むエッセイ形式の文章も一緒に並べられているからである。
物語が実験場だというのはどういうことかというと、(書き手自身が作中で述べていることだが)登場人物をわれわれと同じような一個の人間とは考えていないということである。彼らはそれぞれのテーマの中から生まれ、いくつかのキーワードとして動いているに過ぎない。一個の人間としての矛盾やらなんやらを描くことが目的ではなく、逆にそういった部分を抜きに単純なモデルをつくり、テーマを提示し、それについて書き手がいろいろ思うところを書いていくのだ。書き手の思索の一方法として物語があるのである。これが理解できなくて「クンデラの女の描き方は女性蔑視だ」と騒ぐフェミニスト連中もいるそうだが、まあそういうのは、インタビューを申し入れた日本人記者に対して「クジラを食べる人とは話しません」と断ったアメリカ環境保全団体のおばはんと同じくらいのアタマなのだろう。そうは言ってもそれぞれの登場人物の描き方はかなりしっかりしているので、物語部分も面白く読める。
さて小説のタイトルが『存在の耐えられない軽さ』であるように、クンデラはここで「存在の軽さ・重さ」を問題としている(のっけからニーチェの永劫回帰を話題にしているあたりがまた、バブル期の読者にはキッチュとして作用したのだろう)。

永劫回帰の世界ではわれわれの一つ一つの動きに耐え難い責任の重さがある。これがニーチェが永劫回帰の思想をもっとも重い荷物(das schwerste Gewicht)と呼んだ理由である。
もし永劫回帰が最大の重荷であるとすれば、われわれの人生というものはその状況下では素晴らしい軽さとしてあらわれうるのである。

続けて書き手はここで疑問を提示する。「だが重さは本当に恐ろしいことで、軽さは素晴らしいことであろうか」。すなわち重さに耐えるというのはもっとも充実した人生の姿であり、逆に軽すぎるというのは自由ではあるけれども意味がないと言うのだ。したがって『存在の耐えられない軽さ』とは「自己の存在の耐えられないほどの無意味さ」を言っているのである。「われわれは何を選ぶべきであろうか?重さか、あるいは、軽さか」と書き手は言う。つまり重さに耐えるか、軽さに耐えるかということなのだろう。
ここで物語の最初の登場人物であるトマーシュについて考えてみる。彼はそれまでの経験から、女に憧れているが恐れてもいる。

恐れと憧憬の間で何らかの妥協をしなければならず、それを”性愛的友情”と呼んだ。そして自分の愛人たちに、一方が他方に生活や自由に関して要求をしないようなセンチメンタルでない関係だけが、両者に幸福をもたらすと主張した。

セックスフレンドと言ってしまっていいのかわからないが、まぁそれに近い関係にある女がトマーシュには大勢いたのだ。このような生活をしていたトマーシュがある日テレザに出会う。テレザは彼に、今までの女とは明らかに違う何かを感じさせ、トマーシュは自らの変化に戸惑いながらも共に住み始める。しかし、以後はなかなか面倒な生活の連続である(最終的にトマーシュはテレザと再婚するのだが、他の女との「性愛的友情」関係は依然続いていた)。
テレザに出会うまでのトマーシュの生活は「軽い」。後に「性愛的友情」の一番の理解者であるサビナという女性が登場するが、トマーシュと彼女との関係は「軽さ」を意味している。逆にテレザとの関係は「重さ」を示している。

彼とテレザとの愛は美しくあったが、世話のやけるものであった。絶えず何かをかくし、装い、偽り、改め、彼女をご機嫌にさせておき、落ち着かせ、絶えず愛を示し、彼女の嫉妬、彼女の苦しみ、彼女の夢により告訴され、有罪と感じ、正当性を証明し、謝らなければならなかった。

「重さに耐えるというのはもっとも充実した人生の姿である」と書き手は言っているわけだが、こと恋愛に関しては上の引用部を見るに、あまり魅力的な感じはしない(基本的に私は「軽さに耐える」側の人間だから?)。

第1部で物語の半分が語られるが、それはトマーシュの視点に終止している。第2部では同じ物語を(まったく同じではないが)テレザの視点で語っている(物語を2度繰り返すためか、話のテンポが素晴らしく良い。第1部が40ページしかないというのは驚かされる)。第1部は『軽さと重さ』というタイトルであり、第2部は『心と身体』である。つまりトマーシュにおいては軽さと重さがテーマとなり、テレザについては心と身体がテーマとなっているのである。ちなみに第4部は再び『心と身体』であり、第5部は『軽さと重さ』であり、それぞれにテレザ、トマーシュの話となっている。
テレザには秘められた熱望があった。それは「他のからだと同じような身体ではなく、自分の顔の表面に心という軍隊が船倉から顔をのぞかせるような身体でありたい」というものだ。書き手によるとそれは母親との相剋だそうで、テレザの母親は「全世界が一つの巨大な、身体の強制収容所以外の何物でもない」と考え、娘にもそれを押しつけていた。テレザが、入浴中にいつでも入ってくる義父を嫌って浴室に鍵をかけると激怒するような母親である。身体的な恥ずかしさというのが許されない家であった。

テレザは誰の身体でも同じであるという母親の世界から逃げ出すために彼のところへやってきた。テレザの身体が唯一つしかない、とりかえのきかないものであるようにと彼のところへ来た。ところが、彼は今テレザと他の女とが等しいというしるしをふただび描いて、誰にでも同じようにキスをし、同じように愛撫し、テレザの身体と他の女たちの身体にまったくいかなる差もつけようとはしなかった。

面白い。これはつまり「あなたは『私』ではなく『私の身体』を愛したのよ」という非難と同じ問題だと思われる(今どきこんなこと言う女なんていねーか)。こう言われた男の多くは「???」ではないだろうか。男にとって心と身体は別々のものではないからだ。ちなみにトマーシュの中では、テレザと「性愛的友愛」関係にある女たちとの差は歴然であり、したがって愛人たちの存在はテレザへの愛の何ら妨げになるものではないので、彼女たちとの関係を終わりにすることはナンセンスだと考えていたし、テレザにもそのように説明していた(!)。しかしテレザにとっては身体的な扱いの差が問題だったわけで、その点では確かにいかなる差もないと言わざるをえない。
心と身体が別だという意識はテレザの場合は「母親の世界」からきているようだが、私はむしろもっと一般的な話じゃないのかと思う。女の持つ心と身体が別という意識は、「私の身体」が「私の心」とは無関係に「他と同じ単なる身体」として扱われることが実際にあるというところからきているのではないだろうか。それは要するに痴漢に遭ったり強姦されたりという話になるが、自分がそういう目に遭わなくてもテレビドラマや映画、ニュースでよく耳にするわけで、それは制作者側の意図通り「実際そうでしょ」という形ではなく、「女とはそういうものだ」ということで刷り込みが起きてしまう部分も相当あると思われる。逆に男はこういった目に遭うことは稀だ。したがって何の問題もなく心と身体は一致しているのである。

さてこの第2部において書き手は「偶然」について結構書いている。第1部でトマーシュが、自分がテレザと出会ったのは6つのありえない偶然によっていると考え、いやな気分になっていたことについて、書き手は「しかし、ある出来事により多くの偶然が必要であるのは、逆により意義があり、より特権的なことではないであろうか?」と、シュルレアリスティックなことを言っている。

ただ偶然だけがメッセージとしてあらわれてくることができるのである。必然的におこることや、期待されていること、毎日繰り返されることは何も語らない。ただ偶然だけがわれわれに話しかける。それを、ジプシーの女たちがカップの底に残ったコーヒーのかすが作る模様を読むように、読みとろうと努めるのである。

ここでシュルレアリスムを思い浮かべたのは、書き手がテレザの見た3パターンの夢についてそれぞれ細かく分析していたりもするからである。私は以前シュルレアリスムをかじっていたときに、この偶然の力というめちゃめちゃアヤシイ話について騙されたつもりで意識的になってみたことがあった。それは人との出会いに止まらず、ある出来事との遭遇についてもその意味について思いめぐらすというもので、驚いたことにこれが結構バカにできなかったりするのである。まあ物好きな人は一度試してみるのもいいかもしれない。
あとこのテレザの部で個人的に爆笑したのは以下の部分である。

「何かより高いところ」を目指すかわりに酔っ払いにビールを運んだり、日曜日に弟の汚い洗濯物を洗う女の子は、大学で勉強し、本を開けてあくびをしている人たちが考えてもみないようなバイタリティーを自らのうちに蓄えもっている。テレザはその連中よりも多く読んでいたし、生活についてはその連中より知っていたが、それを意識することはけっしてない。大学で勉強した人と、独習者とを区分しているのは、知識の量ではなしに、バイタリティーと自意識の程度の差である。

第3部の『理解されなかったことば』は、さらに私の笑いを誘った。第6部のアメリカ人とフランス人の断絶の描写もめちゃめちゃ面白かったが、秀逸と思ったのはこの第3部である。
ここではフランツという2人目の男が登場する。場所はジュネーブ。そして彼と「理解されなかったことば」を交わすのはサビナである。サビナはトマーシュ、 テレザと共にプラハにいたのだが、ソ連軍が侵攻してきたためスイスへ亡命したのだった。(トマーシュとテレザも一度はチューリッヒへ亡命したのだが、テレザが別れを記した手紙をおいてプラハに帰ってしまったため、トマーシュは3日間逡巡した後プラハに戻る)。
第3部の中には「理解されなかったことばの小辞典」が3つ収められている。辞典には「女」「誠実さと裏切り」「音楽」「光と闇」等の項目が並び、それぞれについてフランツとサビナの間の断絶が語られる。ここの形式は非常に面白い。というのも、この小辞典の項目は内容的にそれぞれ独立しているのではなく、各項目間に物語としての時間の流れが存在するからである。つまり、フランツとサビナを物語る際にあらわれる断絶をその順に並べたものが「小辞典」というわけだ。
私が感心した(というか「まっとうだな」と思った)のは、書き手が、ここに示される断絶について「そーいうもんだよね」ということで描いていることである。断絶に気づかない男と、断絶を断絶として提示しない女として2人は終止するが(そのためこちらとしてはどうしてもフランツがただの間抜けに見え、したがってサビナが彼との関係に積極的ではなく、断絶が露呈しても放っておいているように見える)、その断絶に対する態度も含めて、それぞれがそれぞれの断絶を形成してしまう背景を見ると、フランツはフランツで筋が通っているし、サビナに関しても同様である。彼らの生き方の違いとして断絶は生まれるわけで、やはりこれはしょうがないとしか言い様がない。いや、むしろそれが当然なんで、以心伝心といかないことは別に悪でもなんでもないのである。
彼らの断絶の中で一番笑ったのは次の話である。

サビナは浴室からもどってくると、そのあかりを消した。こんなことを彼女がしたのは初めてだった。フランツはこのしぐさにもっと注意すべきであった。彼には光が何の意味も持っていないので、それに注意を払わなかった。知っての通り、愛し合うときフランツは目を閉じるのが好きであった。
そして、まさにその閉ざされた目のゆえにサビナはあかりを消した。彼女はもう一瞬といえども閉ざされたまぶたを見たくなかった。諺にいうように、目は心の窓である。彼女の上でいつも目を閉じたまま激しく動いたフランツの身体は彼女にとって心のない身体であった。それはまだ目が開いておらず、のどがかわいているので力なくピーピー鳴く動物の子供に似ていた。あの最中の素晴らしい筋肉をしたフランツは彼女の乳房で乳を飲む大きな子犬のようであった。本当に彼は乳をちゅうちゅうやるかのように彼女の乳首を口にしていた!下半身は成熟した男で、上半身は乳を飲む子供、すなわち赤ん坊とことを営むという考えが急にサビナにはほとんど嫌悪といっていい感情をおこさせた。いやだわ、もう二度と彼が自分の上で絶望的に動くのなんて見たくないわ、雌犬が子犬にするように自分の乳房をふくませるなんてもう二度としないわ、今日が最後よ、絶対におしまい!

うう、目を閉じてすることがまさかこんな風にとられるとは。しかしサビナのもつイメージを聞かされると、彼女の嫌悪感も理解できる……(というか、まさにこのイメージに私は笑わされたのだが)。ちなみに彼女は、フランツに対するこの一方的なイメージから彼と別れようと決心したことについて、まぁ、悪いと思っている。しかしそこはやはりどうにもならない部分らしい。彼女はフランツに黙ってパリに行ってしまうのである。
パリへと移ったサビナは、しかし「存在の耐えられない軽さ」からくる憂鬱に苛まれていた。その後彼女はフランツにつけまわされたり復讐されたりすることはなかったが、まさにそれこそが問題だったのである。
彼女は「軽さ」に耐える女である。書き手が最初に「軽すぎるということは自由ではあるが意味がない」と述べていたもののモデルのように思われる。確かに彼女は自由であったが、そのために彼女は両親や祖国、愛を裏切ってきた。おそらくこの先もそのように生きていくことだろう。しかしもはや裏切るものがなくなったとき、その結果はどういうものなのだろうか。そしてその先はどうやって生きていけばいいのか。自由であることの軽さ。何からもつなぎ止められていない自分とは、誰にとっても何にとっても意味のない存在ではないのか。
そう考えるうちに3年が経ち、ある日彼女はトマーシュの息子から手紙を受け取る。それはトマーシュとテレザの死を告げるものであった。彼女はトマーシュという過去とのつながりをまた一つ失ったことで、かなり打ちのめされる。そして手紙の中に、トマーシュとテレザが幸福であったと思われる記述を認め、ふいにフランツの事を思い出すのである。
彼女は、フランツと自分の断絶に我慢がならなかったことを悔いた。「もっと長いこと一緒にいれば、話し合ったことばがしだいに理解されてきたかもしれなかった」。このときサビナは「重さ」に憧れたのかもしれない。テレザという「重さ」と共に幸福に暮らしていたトマーシュのように、自分もフランツという「重さ」があれば、これほど虚しい思いもしなかっただろうにと。

振られたフランツのその後については第6部でまとめて書くことして、話は第4部に進む。
第4部は『心と身体』ということで、第1部、第2部の話の続きがまずテレザ側から語られる。ちなみに読者には既にこの2人の死について知らされているので、読み始めはなんだか変な気分である。死までの限られた時間の中で2人の関係はどう変わり、どう変わらないのか。この2人が最終的には幸福になることは第3部で暗示されており、起こるべき2人の変化に期待させられる(相変わらずというか冒頭は、トマーシュが未だに他の女と寝ていることを、テレザが文字通り嗅ぎつけるシーンで始まるのだが)。
テレザの「心と身体」問題に話が行く前に、第2部にちらっと出てきた「強制収容所」が話題になる。
トマーシュはラジオを聴いていた。ソ連の侵攻後チェコにはプライバシーというものがなくなり、反体制派の家にしかけられた盗聴器によって得られた個人的な会話などは、放送局によって連続ものとして公に流されたという。そのような放送を今また耳にしたトマーシュとテレザは、次のような会話をする。

「秘密警察は世界中どこにもあるけど、自分のとったテープを世間に放送するなんて、おそらくチェコ以外にはないな! こんなことはどこにもありえない!」
「でも、あるわよ」と、テレザは言った。
「私が十四歳のときひそかに日記をつけていたの。誰かに読まれるんじゃないかと、とっても恐れていたわ。日記は屋根裏にしまっておいたの。でもお母さんがそれを嗅ぎつけたの。あるとき、おひるのごはんで、みんながスープを飲んでいたら、ポケットから日記を出してこういったの。『みんなよくおきき!』そしてひとことひとこと読み上げるたびに、吹き出して笑ったのよ。みんな笑いこけて、全然飲むことができなかったわ」

うーむ、ムカつく母親である。少女時代のテレザが察せられるというものだ。
ところで私はチェコの秘密警察とこのキチガイじみた母親が一緒に並べられていることに「?」となったのだが、後にテレザが使っているところの「強制収容所」の意味内容をきいて、成程と思った次第である。

テレザはこの強制収容所ということばを少女時代から、自分の家族との生活についてどう感じているのかを表現したいときに用いてき た。強制収容所とは昼も夜も絶えず人が並んで暮らしている世界である。残酷さと暴力は単に二次的な特性で、けっして不可欠のものではない。強制収容所とは プライバシーの完全な破壊である。(中略)テレザも母親のところにいたとき、その強制収容所に住んでいたのである。そのとき以来、強制収容所は見物する価値のある、何か例外的なものではなく、それどころか逆に、そこに人間が生まれてきて、そこから逃げるには大きな努力がいる基本的な、与えられた何かであることを知っているのである。

「強制収容所=プライバシーの完全な破壊」とは、ちょっと面白い言い方である。しかし日頃から「一人の時間がないと死んでしまう〜」と思っている自分としては、その悲惨さは容易に想像可能だ。あと後ろにある「人間は強制収容所に生まれてくる」という話も面白い。
さて、テレザの「心と身体」問題である。彼女はサウナへ出かけ、そこで他人の身体を眺め、自分の身体を眺め、いろいろぐちゃぐちゃ考える。しかし最後にはやっぱりここに行きつくらしい。

テレザは鏡の前に射竦められたように立って、自分の身体をまるで他人のものであるかのように眺めている。他人のものではあるが、 それでも他ならぬ彼女に割り当てられている。彼女はそれに嫌悪を感じている。その身体はトマーシュの人生の唯一の身体となるには十分な力を持っていなかった。その身体は彼女を失望させ、裏切った。テレザはその夜一晩中、彼の髪からよその女のデルタの臭いを嗅がなければならなかったのだ!

上の文章を見ると、テレザの問題の解決は、自分の身体がトマーシュに愛される唯一の身体となることのように思われる。しかし本当にそれが解決なんだろうか。なんか違うような気がするけどな。


*****


まだ終わらないー。続きはまた書きます。



 


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